8代 伊達 宗遠
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1380年
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出羽国置賜郡長井庄に侵攻し長井広房を追放。長井氏の置賜領有は
8代191年で終わりを告げる。長井市の白川近くに、伊達氏に騙し討
ちにあって非業の死を遂げた、新田氏の武将の供養碑 が建っている。
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9代 伊達 政宗
(儀山政宗)
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1397年
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上洛して将軍足利義満に謁見。(政宗の妻と義満の生母は姉妹。)
勢力を、宇多・名取・宮城・深谷・松山から、置賜・長井へと拡大。
屋代(高畑)城を置賜支配の拠点とする。1405年没。
墓は高畠町竹森字野手倉(時沢小学校の約1km南)にある。
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10代 伊達 氏宗
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関東公方足利氏満より「氏」の一字を賜って氏宗と名乗る。
政宗の菩提寺として、宮城県刈田郡湯原に東光寺を創設。
(福島県保原町にも同名の寺があり、政宗の墓と伝えられる五輪の塔
が現存。)
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11代 伊達 持宗
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1406年
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本拠地梁川に梁川八幡宮を造営。1441年には祖母蘭庭禅尼の
菩提寺として梁川に輪王寺を創建。同寺は、その後伊達氏本拠地の
移転に伴い西山・米沢・仙台へと移った。1464年没。(享年77歳)
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12代 伊達 成宗
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持宗の次男。二度上洛しているが、1483年2度目の上洛の際は
馬数100頭を引き具して京童の耳目を驚かせた。前将軍義政と、夫人
日野富子、将軍義尚らに贈った砂金・馬・黄金など、進物の夥しさは
後々まで国中の評判となった。
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13代 伊達 尚宗
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1494年
1508年
1514年
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妻は越後守護上杉定実の娘。長男稙宗と反目し合っていた。
屋代城にあった稙宗が竹森丹波(竹森館主)に命じ、館内に滞在して
いた尚宗を不意に襲ったが、尚宗は逃れて、松川(糠野目松川越場)
に布陣した。しかし勝つことはできず、ついに会津猪苗代に落ち、
ここで芦名氏の援軍を得て反撃、屋代城を攻めた。
稙宗は敗れ、伊達梁川城に退いた。
昌伝庵をあら町に建立。(尚宗3男久松丸を葬る。)
卒す(享年62歳)。家を稙宗が継ぐ。
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14代 伊達 稙宗
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1521年
1539年
1540年
1544年
1548年
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大里峠に新道を開墾し、越後路の往来を便にした。
4男玄蕃丸を葬る。供養のため昌伝庵に寺領57石を寄付した。
越後守護上杉定実に男子無く、稙宗の子時宗丸を養子にしようとする
が、晴宗は越後国人の意思統一がなされておらず、また有能な家臣
100騎を移出することに反対する。
これをきっかけに世にいう天文の乱が勃発。(稙宗と晴宗の争い)
稙宗、晴宗と糠野目河原に戦う。
天文の乱は将軍義輝の仲介によって和睦し、家督を晴宗に譲って
伊具郡丸森町に隠居(61歳)。
家を継いだ晴宗(30歳)は、居城を西山から米沢に移す。
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15代 伊達 晴宗
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1533年
1548年
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将軍足利義晴より「晴」の一字を賜って晴宗と名乗る。
居城を西山から米沢城(舘山?)に移す。
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16代 伊達 輝宗
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1544年
1555年
1560年
1561年
1572年
1584年
1585年
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晴宗の次男。伊達郡西山城で生まれる。
夫人は山形城主最上義守の娘義姫。
上杉景勝、上田城で生まれる。この頃から上杉謙信と武田信玄が
川中島で対峙。
直江兼続、上田で生まれる。
この頃、上杉謙信と武田信玄が川中島で激戦を繰り広げる。
僧虎哉宗乙(43歳)を招請し、夏刈資福寺の住持とした。
舘山城に隠居。政宗に家督を継がせる。
二本松城主畠山義継の計略にかかり憤死。(42歳)
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17代 伊達 政宗
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1567年
1572年
1584年
1585年
1586年
1589年
1590年
1591年
1601年
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米沢で生まれる。
輝宗、僧虎哉宗乙(43歳)を招請し、夏刈資福寺の住持とした。
父輝宗、舘山城に隠居。政宗家督を継ぐ(18歳)。
父輝宗、二本松城主畠山義継の計略にかかり憤死。(42歳)
芦名・佐竹・相馬の連合軍と人取橋(福島県本宮町)において激戦。
二本松城攻略。 遠山に覚範寺建立。
会津黒川城主芦名義広を摺上原で破り芦名氏滅ぶ。政宗黒川城に入る
母の政宗毒殺未遂事件。弟小次郎を刺殺。
小田原参陣を決意。秀吉より、会津・安積・岩瀬の地を没収される。
大崎・葛西一揆平定。讒言あり。1月、上洛して秀吉に謁見。
会津・米沢・信夫郡等の地を献じ、移封され9月岩出山城に入る。
仙台城に入る。
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