慶次清水などの遺跡も
慶次に関する資料は加賀藩資料によるところが多いが、遺跡遺品については米沢の地に比較的多くある。荒子城の近く熱田神社に奉納太刀があり、川西町に甲冑があるとの情報もある。ここでは米沢・高畠の遺跡遺物についてふれることにする。 @無苦庵跡 慶次が生活した庵(無苦庵)があったといわれている場所。 米沢城下郊外堂森山付近ということだけで明確な所在地は確認できない。 A慶次清水 名前の通り慶次が生活用水として使用していたとされる清水。今もこの名前で主に灌漑用水として使用されており、利水者により毎年川掃除が行われている。以前はふんだんに湧き水があったが八幡原の開発などにより細くなってきている。八幡原野球場の西側、うっそうと茂った杉林の中にある。 B一花院跡 慶次は慶長17年(1612)6月4日享年70歳前後で波瀾の生涯を閉じた。遺骸は北寺町一花院に葬られた。一花院は千坂家の菩提寺であり慶長11年(1606)千坂景親病没し親族の満願寺仙右エ門高信が相続した。高信の実家が日朝寺であることから後に改宗し墓所も移し離壇した。寺は文政7年(1810)の大火で消失。明治初年廃寺となる。慶次の墓は不明。 C前田慶次供養塔 昭和55年10月、慶次の戦功と堂森での生活を記した供養塔が堂森善光寺境内に住職酒井清滋氏により建立された。 D伝前田慶次所用甲冑 朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足で兜は編笠形、裃のように肩の張った肩当と金色の鱗形袖がなんとも異風である。胴、草摺、肩当が朱漆塗の奇抜な甲冑でいかにも慶次好みである。(宮坂考古館蔵) E亀岡文殊堂奉納詩歌 慶長7年(1602)2月27日直江兼続は上杉景勝米沢30万石に移封され城下町づくりに多忙をきわめていた時期に、亀岡文殊堂に詣で詩歌の席を設けた。雅友27名が参加、その中に慶次もいた。慶次は後に亀岡百首といわれるこの連歌に短冊五首を残している。(亀岡文殊蔵) F伝前田慶次所用槍 慶次の武術は人並み以上に達者であり数多く逸話がある。特に槍使いが得意で朱柄の槍を使うことを許されたという。堂森に庵を構え近隣住民とも馴じみ戦歴に花を咲かせていたある日、孫兵衛が慶次から頂いたものと伝えられている。「下坂」という銘があり、総螺鈿造りで総長3.13メートルの長槍である。(個人蔵) Gお面 慶次は京都において文人および能楽者などとの交流を積極的に行いその芸を身につけた。能は武士の嗜のひとつであり公の場所での舞は常であった。慶次が堂森で彫ったと伝えられているこのお面からは喜怒哀楽の人生を感じ取ることができる。(個人蔵) H堂森秋月の図 堂森に居した慶次は堂森山に登り花鳥風月を楽しんだ。この図は米陽八景(元禄8年矢尾板三印詩歌、簀山画)の一つで慶次没後100年程経って描かれたものである。この山に月見平という平場があり慶次の往時の生活を偲ぶことができる。(市立米沢図書館蔵) Iその他 堂森にはその他生活雑器が数点残されている。また慶次が着用したと伝えられている笠やみのも残されていたが、今は不明となっている。 |