興味深い慶次の「道中日記」



関ヶ原合戦終結後、敵味方に対する戦後処理が行われ、景勝は会津120万石から米沢30万石へと減封された。

慶長6年10月15日景勝は京都から米沢へ向かった。

慶次は10月24日景勝を追って京都伏見を発し米沢へと向かった。11月19日に米沢へ到着するまでの26日間の旅を慶次は日記に残した。これを「前田慶次道中日記」という。
日記のはじめのほうでは、過去との決別の旅、米沢永住の旅を感じ取れられる。

伏見から米沢への行程は大津から琵琶湖を渡り、中仙道を通って奥州街道に入り庭坂についたのが11月17日。この日の日記には「雪が深くやっとたどり着いたが、みちの奥への道はまだ20里もきていない」と書かれており、進むのに困難な様子である。

そして11月19日米沢へ着く。日記の最後に陶淵明の「帰去来辞」の中の一句「すなわち衡宇(わが屋敷の門)をみて、すなわち欣び(よろこび)、すなわち奔る(はしる)」が書かれており、ついに目指す米沢まで辿りついた喜びが表れている。


この道中日記は昭和の初め、骨董商永森氏らの手を経て、当時東大文学部古文書課勤務であった米沢出身の志賀槇太郎氏の手に入り、昭和9年(1934)米沢郷土館の所蔵となったものである(米沢善本の研究と解題)。

なお、昭和6年には旧市史編纂担当の今井清見氏が解読している。
現在市立米沢図書館所蔵のこの日記は、藍表紙袋綴じ小本で縦22.2センチ、横13センチ本文26丁のものである。箱書きに「前田慶次道中日記」、箱裏書に「前田慶次慶長六年十月城州伏見を発し十一月十九日奥州米沢に至る自筆の道中日記なり。」とある。(米沢善本の研究と解題)

史料的価値については、短い紀行にも関わらずその内容は、古文に精通し漢籍をよくし和歌俳諧に通じ地理に詳しく大変価値が高い。自らの胸中を披露し自然を描写しており、慶次の文化人ぶりがうかがわれる文芸作品である。文中、土地の民話やことわざ(俗諺)に耳を傾け、これを巧みに生かして地誌を語っていることも興味深い。本紀行が国文学や歴史資料にとどまらず民俗資料として注目されてもよい。

また地名や語彙に異字が見られるが「慶次は知りながら奔放に使っているのだろう」と評されていることからも貴重な資料といえる。(米沢善本の研究と解題)



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