晩年は万世堂森で悠々と



幼名は滝川総兵衛。通称名を慶次または慶次郎という。

名のりについては利益、利大、利太、利卓、利治、利貞といくつもあり、いつどんな時に用いたかははっきりしないが、米沢では前田慶次利貞と記されている。
慶次には一男五女があり、長男正虎は前田家に仕え、書を修め書家として活躍した(2000石)。生涯子は無く七尾で没している。長女お花は有賀左京へ嫁した。

後、大聖寺藩士山本弥右エ門室となる。二女は北条主殿氏邦の室。三女は長谷川三右エ門へ、四女は平野弥右エ門へ嫁す。五女は富山藩士戸田弥五左エ門室となる。(加賀藩資料)
慶次の養父利久は、尾張荒子城主前田利春の長子であり、永禄3年(1560)父の跡を継ぎ城主となった(2000貫)。

養子の慶次はその跡を継ぐ運命にあった。しかし信長は永禄12年(1569)荒子城を前田家四男の利家に譲るよう命じた。それで利久慶次親子は追放され、その後の消息についてはなんら手がかりになる資料が無く不明である。


天正11年(1583)利家は秀吉に能登及び加賀二郡を与えられ金沢城に入城する。この頃利久慶次親子は詫び事あって帰藩(追放後14年程経っている)、七千石与えられる。その後利久は隠居し慶次に五千石を与えた。以後慶次は利家に従い参戦した。(本藩歴譜)

天正15年(1587)利久没。

天正18年(1590)慶次は奥州検地で碇ヶ関(青森県)まで利家に従い下向した。7年ほど仕えたこの年慶次は前田家を出奔している。慶次の年齢を推定すると48歳前後と考えられる。この年から8年間ほど流浪したのだろう。

この間に京都において直江とも巡り会い交友したことで、景勝に仕えることにもなっていった。

慶長3年(1598)景勝が会津移封となり多くの組外衆を召しかかえている。「慶長5年直江山城支配長井郡分限帳」に組外衆として一千石前田慶次の記載があり、慶次が景勝に仕えていたことをうかがい知ることができる。

この年関ヶ原合戦があり慶次は最上長谷堂戦で兼続とともに戦い戦功を上げた。その後慶次は京に戻っていたのであろう。慶長6年10月景勝を追って伏見から米沢へ向かった。
米沢では郊外堂森に居(無苦庵)を構え悠々自適の生活を送った。

そして慶長17年(1612)6月4日堂森において70歳前後で死亡、城下一花院に葬られたという。又加賀藩資料では慶長10年(1605)11月9日73歳大和刈布で没したと記されていることからも慶次の生没が不明とされる所以である。



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