物見山の戦い

    間道(山形領)
間道(米沢領)

 

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  上山市中山周辺は置賜地方と村山地方の境界であるため、度々戦場となっている。戦国時代には伊達氏が中山城を置き、国境を警戒していた。伊達氏と最上氏は姻戚関係にあるが度々戦っており、1588年にも独眼龍伊達政宗と伯父の最上義光が中山で対峙し、一触即発になった。この時は政宗の母で義光の妹義姫(保春院)が両軍の間に入って身体を張って戦をやめさせたという。
1600年の関ヶ原の戦いにともなう「出羽合戦」でも中山周辺は上杉軍と最上軍が死闘を繰り返す戦場となった。関が原の合戦において東軍の山形城主最上義光は、西軍で会津・米沢・庄内を領する上杉景勝をけん制する役割を伊達政宗らとともに担った。この動きに対して米沢城主で上杉家随一の知将、直江兼続はまず最上義光を討つことを決意した。庄内からも軍を進めさせ、米沢からは軍を二手に分け、本隊は自らが率いて白鷹山を越え、畑谷、山辺、長谷堂方面を攻撃し、もう一軍には上山方面から山形を攻撃させた。上山城攻撃の上杉軍は本村親盛、篠井泰信、中山城将の横田旨俊を中心に一隊を川口から、別の隊を小穴方面と柏木方面から侵攻させ、赤坂地区の上の台に布陣する。最上軍は上山城将の里見民部に援軍の草刈志摩守を加え、迎え撃った。こうして石曽根、高松、藤吾、阿弥陀地、細谷、小穴の一帯を戦場に白兵戦が展開され、上杉軍の本村親盛は戦死した。この戦いを藩境の山の名から「物見山の合戦」という。
逆襲に転じた最上軍は上杉領中山の広河原に布陣し、撤退した上杉軍を攻撃した。しかし最上軍の草刈志摩守は上杉軍の鉄砲射撃で戦死。最上軍は山形へ撤退した。この戦いを「広河原の戦い」という。
これらの戦いで多くの兵卒が戦死し、その霊を中山との境にある『首塚』に葬ったという。
藤吾から金華山堤の横を通り、山越えして前川ダムの南に出る。ダム湖の南側を西へゆくと中山との境をなす隘路に至る。そこに「首塚」が立っている。「首塚」から中山の集落に下りると途中に「広河原古戦場」案内板もある。

 

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