中山城

米沢街道  

間道
米沢街道  

最寄駅「羽前中山」

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中山城址の天守山に残る碑中山城址天守山の石垣
中山城下の足軽屋敷配置図。三島通庸によって造られた眼鏡橋「中山橋」。
上山市中山はかつて置賜郡に属し、米沢領であった。対山形領の最前線であることから軍事的にも重要視され、中山城がこの地に築かれた。中山城のある天守山は三段の郭で構成され、その東には前森山があり、城下からは前森の城砦を突破しなければ、天守山に近づけない。天守山の南北はそれぞれ渓谷となり、天然の要害を成していた。米沢街道を挟んで北東の物見山に登れば最上領での異変を察知でき、麓の掛入石によって前川の谷間は塞がれ、容易に侵入できないようになっていた。
戦国時代、永禄・元亀年間には伊達家臣中山弥太郎がこの中山城を守備していた。中山城付近では伊達対最上の戦いがしばしば行われた。永正十一年(1514年)伊達稙宗は山形の最上義定と戦い、天正二年(1574年)には最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、新宿(二井宿)から上山盆地に入り、楢下を奪い、畑谷城の兵と戦い、高松を焼いた後、中山城へ引き揚げている。また伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。
伊達政宗が移封されると置賜は蒲生氏郷の領地となり、米沢城に蒲生郷安、中山城に蒲生郷可が配された。しかし蒲生郷可は郷安と仲が悪く、宮内城を改修して米沢城攻撃を図ったという。
慶長三年(1598年)上杉景勝が置賜の領主となり、中山城には横田式部旨俊が配された。1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉家は米沢城の直江兼続を大将として東軍の山形城主最上義光を攻撃した。中山城の横田旨俊も別働隊を率いて上山城の里見民部を攻めたが最上軍の伏兵に敗れ、本村親盛らの将兵を失い中山城に退却した。これを物見山の戦いという。逆に最上軍が中山に攻め込み、前川河畔の広河原まで迫ったが上杉軍の鉄砲射撃で最上の武将、草刈志摩守を倒して最上軍を撤退させた。この戦いで亡くなった将兵の霊が中山から前川ダムへ向かう細道の途中の「首塚」で祀られている。
江戸時代には米沢城の支城は御役屋とされた。中山城では天守山の下に御役屋を置き、御役屋将を配して藩境を守らせた。中山城下には足軽屋敷跡があるが、彼らは武田信玄の旧臣清水三河守康徳とともに中山城下に移り住んだ。彼らの子孫は現在も「御足軽」と称するという。
明治になって山形県令三島通庸が山形県の道路を整備した際、中山を通る米沢街道も整備され、明治十三年にアーチ式の石橋「中山橋」が造られた。この橋は今も中山の集落内に残り、「奈可やまはし」と陰刻されている。
その後、中山城の御役屋跡には中山小学校が建てられたが平成9年に移転している。

 

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