中山城

中山城址天守山に残された石垣上杉と最上の戦いで亡くなった将兵を祀る「首塚」。

(写真左:中山城址天守山に残された石垣)(写真右:上杉と最上の戦いで亡くなった将兵を祀る「首塚」。)

戦国時代、永禄・元亀年間、伊達家臣中山弥太郎が中山城を守備していたという。この辺りは伊達氏と最上氏の領境で、しばしば戦いの舞台となった。永正十一年(1514年)伊達稙宗は山形の最上義定と戦い、天正二年(1574年)には最上家の御家騒動に介入した伊達輝宗が最上義光と戦い、新宿(二井宿)から上山盆地に入り、楢下を奪い、畑谷城の兵と戦い、高松を焼いた後、中山城へ引き揚げている。1588年伊達政宗と最上義光が中山で対陣し、一触即発の危機に陥った際、政宗の母で義光の妹である義姫が両軍の間に居座って戦いを断念させたという話もある。伊達政宗が岩出山に移ると置賜郡は蒲生氏郷の領地となり、米沢城に蒲生郷安、中山城に蒲生郷可が入った。しかし蒲生郷可は郷安と仲が悪く、宮内城を改修して米沢城攻撃を図った。

慶長三年(1598年)上杉景勝が領主となると、中山城には横田式部旨俊が配された。1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉家は米沢城の直江兼続を大将として東軍の山形城主最上義光を攻撃した。中山城の横田旨俊も別働隊を率いて上山城の里見民部を攻めたが、物見山の戦いで最上軍の伏兵に襲われ、本村親盛ら将兵が討死して中山城に退却した。逆に最上軍が中山に攻め込み、前川河畔の広河原まで迫ったが上杉軍の鉄砲射撃で最上の武将、草刈志摩守を倒して最上軍を撤退させた。この戦いで亡くなった将兵の霊が中山から前川ダムへ向かう道端の「首塚」で祀られている。

江戸時代になると米沢城の支城は御役屋と称した。中山城では天守山の下に御役屋を置き、御役屋将を配して藩境を守らせた。中山城下には足軽屋敷跡があるが、彼らは武田の旧臣清水三河守康徳とともに中山城下に移り住んだ。彼らの子孫は現在も「御足軽」と称するという。中山御役屋跡には中山小学校が建てられたが平成9年に現在地に移転した。