思川仇討

日本三大仇討「浄瑠璃坂仇討」の思川決闘の場首洗い井戸の話が残る阿弥陀堂

(写真左:日本三大仇討「浄瑠璃坂仇討」の思川決闘の場)(写真右:首洗い井戸の話が残る阿弥陀堂)

上山には「思川」という川が流れており、この地を舞台にした「思川の仇討ち」という話が伝わっている。

寛文八年(1668年)宇都宮藩主奥平美作守忠昌の葬儀の席で重臣の奥平内蔵助と奥平隼人は刃傷沙汰に及び、内蔵助は藩主の一方的な裁定で切腹を命じられ、その子源八郎とその母は処払いとなった。相手の奥平隼人も処払いとなったが、この不祥事で藩主奥平昌能が山形に移封され、隼人の弟奥平主馬介は家老として山形へと従った。内蔵助一族は源八郎を中心に奥平隼人一族への復讐の機会をうかがっていた。この動きを察知した主馬介は大勢の家臣を連れて隼人の救援のため江戸に向かおうとした。源八郎はまず主馬介を討たんとして赤湯に潜み機会を待った。寛文九年七月、主馬介は家臣二十五名を率いて山形を発ち、藤吾原の思川に差し掛かった。そこへ待ち伏せしていた源八郎ら十五名が襲い掛かる。源八郎は大声で主馬介に名乗りをあげ、死闘がくりひろげられた。源八郎の叔父奥平伝蔵と夏目外記の奮戦でついに主馬介は討たれ、阿弥陀地の阿弥陀堂境内の井戸でその首は洗われた。その井戸は「首洗い井戸」として残る。仇討に成功した源八郎一行は江戸に向かう際、楢下の番所を通り抜けるために楢下の佐藤四郎左衛門に便宜を図ってもらい礼状を残した。そして隼人も1672年、江戸浄瑠璃坂にて内蔵助一族の討手により討ち取られた。「思川」の地には無数のホタルが飛び交うというが、それは討ち取られた奥平一族の魂なのだという。

この事件は日本三大仇討「浄瑠璃坂仇討」とされ、作家直木三十五により『浄瑠璃坂の仇討』として本となり、さらに柴田錬三郎氏ら多くの作家によって小説化された。