松根城は最上義光の甥とされる松根備前守光広によって築城された。松根は庄内と内陸を結ぶ六十里越の要地で城は西の赤川を自然の堀とした平城である。光広の父は義光の弟新八郎、母は松根の佐藤家の娘で松ヶ枝といったとされる。また義光の弟、長瀞義保の子であるとか長瀞義保は中野義時と同一人ではないかとか、中野義時は実在しないのではないかとか諸説あるが、松根光広は義光に連なる人物で重臣の地位にあり、最上家の家督相続を巡る騒動で重要な役割をしたことは間違いない。光広は白岩(寒河江市)の白岩備前守の養子になっていたが松根に一万石を与えられ、この地に築城して松根を称したという。松根と白岩という六十里越の東西の要地を抑え、信任されていたことがうかがえる。だが義光存命中から最上家は嫡男義康が松根の近く下山添で暗殺されて関係者が処刑され、1614年義光没後は大坂の陣を前にして次男家親と三男義親が対立して義親が滅ぼされ、鶴岡では一栗兵部が謀反するなど家臣団の争いが激化し混沌としていた。そこへ1617年二代藩主家親が若くして急死。1622年松根光広は家親の謎の死を義光の弟で重臣の楯岡甲斐守光直による毒殺だと幕府に訴えた。幕府は光直を訊問したが証拠不十分として逆に光広が筑後柳川に配流の身となった。しかしこのような最上家中の騒動が明らかになったのを受け、幕府は間もなく最上家を改易としたのである。 |