丸岡城・加藤清正公墓所

 

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丸岡城址の碑丸岡城内のお城稲荷
丸岡城址の古井戸加藤清正の子忠広が両親を一時密葬した聖地「太夫石」「巫子石」
「清正閣」の下から加藤清正の鎧が発見された。加藤清正公墓碑
加藤忠広に先立ち亡くなった加藤家ゆかりの人々の墓上山城主、里見越後・民部父子は最上義光によりこの地で切腹させられた。

丸岡城は大宝寺(鶴岡)から六十里越を経て山形に抜ける交通の要衝に位置し、尾浦城主武藤義氏の弟、丸岡兵庫頭が城主であった。後に武藤義氏は家臣前森蔵人(後の東禅寺筑前守)に討たれ、丸岡兵庫が武藤義興を称して武藤氏を継いだが義興もまた東禅寺筑前守に討たれた。1615年に城は取り壊され、1622年の最上氏改易後は庄内は酒井氏の支配となる。1632年肥後熊本五十四万石の太守加藤忠広が改易されて酒井氏預りとなった。加藤忠広は虎退治で知られる加藤清正の子である。有力外様大名だった加藤氏を恐れ、強引に改易させたものと見られる。酒井氏は丸岡一万石を捨扶持として忠広に与え、丸岡城址に忠広とその生母を住まわせた。忠広は1653年許されることの無いまま死去し、加藤家はここに終焉した。丸岡の領地は幕領を経て酒井氏に戻った。城址にはお城稲荷、古井戸、忠広が両親を密葬したという石が残されている。
丸岡城址の北には天澤寺があり忠広の父加藤清正公の墓碑がある。遺骨壺も納められている。その周りには忠広に付き従った将士の墓や清正公着用とされる鎧が発掘された「清正閣」もある。
また天澤寺には上山城主里見越後、民部父子の墓もある。里見越後とその子民部はもともと上山満兼の家臣だったが山形城主最上義光の謀略により義光に寝返って満兼を殺害。自らが上山城主に納まった。以後、最上義光の家臣として活躍。関ヶ原の戦いに際し、上杉景勝の重臣直江兼続が最上義光を攻めた出羽合戦では上杉軍別働隊を上山で撃退した。だが義光が徳川家に仕えた次男家親を跡継ぎにするため嫡男義康を高野山へ追った際、義康は下山添(櫛引町)で討たれて首を取られた。実行犯は尾浦城主下吉忠の家臣土肥半左衛門と原八右衛門。三名とも出羽合戦で上杉家から降服して最上家臣となっている。事件後、土肥と原は口封じのためなのか討たれた。里見父子はこの義康暗殺事件に加担していたとも民部の子権兵衛が義康の小姓だったので義光に死を命じられて憤ったともいわれ、上山城を出奔して流浪したが前田家から最上家に引き渡され、尾浦城主下吉忠に預けられた。そして慶長十九年一月に里見父子主従は丸岡の地で切腹させられた。やはり口封じのためだったのだろうか。

 

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