丸岡城

丸岡城址の碑里見一族を祀る祠。最上義康の廃嫡と死に関わり切腹させられた。

(写真左:丸岡城址の碑)(写真右:里見一族を祀る祠。最上義康の廃嫡と死に関わり切腹させられた。)

丸岡城は大宝寺(鶴岡)から六十里越を経て山形に抜ける交通の要衝に位置し、尾浦城主武藤義氏の弟、丸岡兵庫頭が城主であった。後に武藤義氏は最上義光に内通した家臣前森蔵人(後の東禅寺筑前守義長)に討たれ、丸岡兵庫が武藤義興を称して武藤氏を継いだが義興もまた最上義光と東禅寺筑前守に討たれた。丸岡城址北には天澤寺があり、上山城主里見越後守義近、民部父子の墓もある。里見越後とその子民部はもともと上山満兼の家臣だったが、山形城主最上義光に寝返って満兼を殺害。自らが上山城主となった。1600年の慶長出羽合戦では上杉家重臣直江兼続が最上義光を攻めたが、里見民部は上杉軍別働隊を伏兵を用いて上山で撃退した。1603年義光は徳川家お気に入りの次男家親を跡継ぎにするため、嫡男義康を高野山へ追った。だが義康主従は丸岡を通った際、討たれて首を取られた。実行犯は尾浦城主下対馬守吉忠の家臣土肥半左衛門と原八右衛門。三名とも出羽合戦で上杉家から降服して最上家臣となっている。事件後、土肥と原は討たれたという。里見民部は義康のことを義光に讒言しており、民部の子権兵衛は義康の小姓だったので義光に死を命じられて憤ったともいわれ、上山城を出奔したが前田家から最上家に引き渡され、尾浦城主下吉忠に預けられた。慶長十九年(1614年)一月に里見父子主従は丸岡の地で切腹させられた。同年下対馬守も鶴岡城内で一栗兵部により殺害された。

加藤清正公墓碑「清正閣」の下から加藤清正の鎧が発見された。

(写真左:加藤清正公墓碑)(写真右:「清正閣」の下から加藤清正の鎧が発見された。)

1615年に丸岡城は取り壊され、1622年の最上氏改易後は庄内は酒井氏の支配となる。1632年肥後熊本五十四万石の太守加藤忠広が改易されて酒井氏預りとなった。加藤忠広は虎退治で知られる加藤清正の子である。有力外様大名だった加藤氏を恐れ、強引に改易させたものと見られる。酒井氏は丸岡一万石を捨扶持として忠広に与え、丸岡城址に忠広とその生母を住まわせた。忠広は1653年許されることの無いまま死去し、加藤家はここに終焉した。丸岡の領地は幕領を経て酒井氏に戻った。城址にはお城稲荷、古井戸、忠広が両親を密葬したという石が残されている。天澤寺には忠広の父加藤清正公の墓碑があり、遺骨壺も納められている。その周りに忠広に付き従った将士の墓や清正公着用とされる鎧が発掘された「清正閣」もある。

加藤清正の子忠広が両親を一時密葬した聖地「太夫石」「巫子石」加藤忠広に先立ち亡くなった加藤家ゆかりの人々の墓

(写真左:加藤清正の子忠広が両親を一時密葬した聖地「太夫石」「巫子石」)

(写真右:加藤忠広に先立ち亡くなった加藤家ゆかりの人々の墓)