五月三日、松川河川敷で「上杉まつり」恒例の「川中島の合戦」が催された。「上杉まつり」では上杉謙信公出陣の儀式「武示帝式」や米沢市内を練り歩く「上杉行列」が行われ、五月三日にメインイベントと言える「川中島合戦」が行われる。 川中島の戦いは五度行われ、そのうち永禄四年(1561年)に八幡原で行われた決戦が最も激しく世に知られた川中島の合戦である。信濃の我が物にせんと目論む甲斐の武田信玄は軍略を駆使して小笠原長時、村上義清など信濃の豪族を撃ち破った。小笠原や村上など信濃の豪族は信義に篤いことで知られる越後の上杉謙信を頼った。さらに武田信玄は越後にもその触手を伸ばし、何度も謙信の配下の武将を離反させた。謙信は武田の侵略に怒り、武田信玄を滅ぼすため毘沙門天に祈り、信玄との決戦に臨んだのである。 八月八日、春日山城を出立した謙信は善光寺に大荷駄隊を置き、自らは一万三千余の兵を率いて犀川、千曲川を渡り、八月十四日に武田軍が籠る海津城の背後にある妻女山に登った。八月二十九日甲府から駆けつけた武田信玄が海津城に入り、上杉・武田両軍は睨み合いとなった。痺れを切らした武田信玄は九月十日零時軍師山本勘助が献策したという「キツツキ」の戦法で高坂弾正昌信に兵一万二千を預けて妻女山を背後から攻めさせた。しかし謙信は前日の武田軍の炊煙からその動きを読み、九月九日の夜のうちに妻女山を出立し、密かに千曲川の浅瀬を渡って八幡原に出陣したのである。後にこの場面を頼山陽が「鞭声粛々夜河を渡る」と詠っている。そうと知らぬ武田信玄は残りの兵八千を率いて八幡原で高坂別働隊に追われる上杉軍を挟み撃ちにしようと待ち構えていたが、九月十日早朝、霧が晴れると上杉軍が無傷で既に目の前にいるのに慌てた。上杉軍は兵力で勝る今こそ武田信玄の首を取る絶好の機会と車懸の陣で柿崎和泉守景家を先鋒に猛然と襲いかかった。武田軍は鶴翼の陣で上杉軍を迎え撃つが支えきれず信玄の弟で副将武田典厩信繁、軍師山本勘助、諸角豊後守らを失い、嫡男武田義信が負傷した。さらに武田信玄の本陣まで上杉謙信(一説に荒川伊豆守)が切り込み、謙信の振り下ろす太刀を信玄が辛うじて軍配で防いだという。三度謙信が太刀を振り下ろし、信玄の軍配に七箇所の傷が残ったことから「三太刀七太刀」と呼ばれている。 |
午前十時頃妻女山に向かっていた武田別働隊が到着し、戦況は逆転。挟み撃ちで不利になった上杉軍は善光寺に退却。上杉軍の甘粕近江守と直江大和守実綱は殿軍(しんがり)として武田軍を防ぎ、上杉軍の退却を成功させた。この川中島の戦いを豊臣秀吉は後に前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ちと評した。戦後、信濃は武田信玄が領有することになったが、信濃を取るという目的を果たした点で信玄にとって勝利であり、信玄の首こそ取れなかったが武田の一門・重臣を討ち取って武田軍に大打撃を与えた点では謙信にとっても勝利であったといえるかもしれない。 |