米沢城

雪燈籠祭り

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戦国一の義将、上杉謙信藩政改革の名君、上杉鷹山
米沢城の桜。城内と城を囲む堀の外側に並んでいる。米沢城の桜。堀と橋の上にかかる桜には風情がある。
米沢城内の一角にある「伊達政宗生誕の地」を示す標。米沢城内にある上杉神社。神社は伊東忠太の設計。
上杉鷹山公を祭る松岬神社。他に細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政と鷹山のブレーンが祭られている。また松岬神社には名宰相として名高く、米沢の基礎をつくった直江兼続も祭られている。上杉記念館(上杉伯爵邸)の門。
上杉鷹山が暮らした餐霞館の址。上杉鷹山公の名言。仕事をする者にとって大事な教え。
戊辰戦争で討死した米沢藩総督、色部長門の追念碑。「上杉雪灯籠祭り」の風景。米沢城内の招魂碑前。
米沢市上杉博物館所蔵の国宝上杉本洛中洛外図屏風
米沢市上杉博物館所蔵の国宝上杉本洛中洛外図屏風
城下町米沢はこの米沢城を中心に発展してきた。米沢城には松岬城(まつがさきじょう)という別名があり、松岬城(しょうこうじょう)と歌われることもある。
米沢城の歴史は、鎌倉時代に置賜を支配した長井氏が居館を置いたことに始まるという。南北朝時代には伊達氏が奥羽山脈を越え、高畠方面から置賜地方を攻略し、長井氏を滅ぼした。十五代の伊達晴宗が「天文の乱」で父を隠居させ、当主になると本拠地を伊達郡の西山城から米沢城に移している。その後、伊達政宗がこの米沢に生まれ、伊達氏は東北随一の戦国大名として大いに勢力を拡大するが、政宗は豊臣秀吉の命で領地を移され、代わりに蒲生氏郷の領地となる。その後、越後の上杉景勝が会津に移され、米沢は上杉領となり名将直江兼続が米沢城主として入り、米沢を整備した。上杉氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため、120万石から30万石に領地を減らされ、米沢城を居城とするようになり、江戸時代を通して米沢は上杉藩の城下町として繁栄し、置賜の政治・経済の中心地の地位を確立した。
現在では米沢城は本丸のみ濠で囲まれ、上杉家の祖で戦国の名将、上杉謙信を祭る上杉神社が鎮座している。また城の東側には改革を成し遂げた名君上杉鷹山を祭る松岬神社がある。南側には上杉記念館(上杉伯爵邸)や上杉鷹山が隠居後の三十八年間、七十二歳で逝去するまで住んだ御隠殿「餐霞館」の跡が残されている。「餐霞館」は本城の南にあたることから南亭とも称した。鷹山の言葉として有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は「餐霞館」の一室に掲げた壁書の終りの部分だという。
また城の南には戊辰戦争で米沢藩兵を率いて新政府軍と戦い、新潟市関屋で討死した色部長門守を顕彰する「色部長門追念碑」がある。色部長門は総督として新潟港を守備したが、背後から上陸した新政府軍の攻撃に遭い戦死。戦後、米沢藩は戦争責任を死んだ色部に背負わせて難を逃れたのである。色部が戦死した新潟市関屋の新潟高校にも「色部長門君追念碑」が残されている。
2003年11月3日まで米沢城に隣接する施設「伝国の杜」内にある米沢市上杉博物館において「特別展洛中洛外図‐くらし‐」が催されている。米沢市上杉博物館所蔵の狩野永徳作『国宝上杉本洛中洛外図屏風』をはじめ、町田本、高橋本、勝興寺本など多くの「洛中洛外図屏風」が展示・紹介されている。『国宝上杉本洛中洛外図屏風』は天正二年(1574年)織田信長が上杉謙信に贈ったという屏風である。季節の行事や当時の生活などが詳細に描かれており、史料的価値も高い。城下町米沢には上杉家を通じてこういった価値ある文物や史跡が多数残されている。これからもその歴史に誇りを持ち、後世に大切に残していってもらいたいと思うのである。
※『国宝上杉本洛中洛外図屏風』の写真は米沢市上杉博物館に確認してパンフレットから撮影・掲載したものであります。

 

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