米沢城

米沢城本丸跡内の上杉謙信像米沢城本丸跡内の上杉鷹山像

(写真左:米沢城の上杉謙信像)(写真右:米沢城の上杉鷹山像)

米沢城の歴史は、鎌倉時代に置賜を支配した長井氏が居館を置いたことに始まる。南北朝時代には伊達政宗(儀山)が高畠城を拠点に長井氏を滅ぼして置賜を攻略した。のち伊達晴宗が「天文の乱」で父稙宗を隠居させ、当主になると本拠地を伊達郡の西山城から米沢城に移している。その後、伊達政宗がこの米沢に生まれ、政宗は東北随一の戦国大名として蘆名氏を滅ぼすなど勢力を拡大するが豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、奥州仕置で1591年岩出山に転封された。ところが当時の米沢城は山の上にあったと記録され、発掘調査などから従来政宗の父、輝宗の隠居城と考えられていた館山城こそ上杉家入部以前の米沢城ではないかと考えられるようになった。政宗の後、米沢は蒲生氏郷の領地となり、家臣の蒲生郷安が入る。米沢城には松岬城(まつがさきじょう)という別名があり、これは蒲生氏郷が会津の黒川城を若松城と改名したのと一緒に米沢城にも命名したものという。

上杉鷹山公を祀る松岬神社。他に上杉景勝公、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政が祀られている。上杉景勝、直江兼続主従を模した像。

(写真左:上杉鷹山公を祀る松岬神社。他に上杉景勝公、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政が祀られている。)

(写真右:上杉景勝、直江兼続主従を模した像。)

1598年、蒲生家が氏郷没後に御家騒動を起こしたため、代わりに越後の上杉景勝が会津に移され、直江兼続が米沢城主となった。1600年、上杉家は関ヶ原の戦いで西軍についたため120万石から30万石に領地を減らされ、会津から米沢に減封された。石高が四分の一に激減したにも関わらず家臣をほとんど解雇しなかったため、五千もの家臣団が米沢に移住した。このため直江兼続は1613年輪郭式の縄張りの現在の米沢城を築城した。本丸には天守を置かずに三階櫓を二基設置し、本丸南西に謙信公の御堂を置いた。石垣でなく土塁を用いた平城で、越後の御館や会津で建設途中だった神指城と同様のつくりとなっている。また侍屋敷は三の丸に配置されたが、城下に収まらない下級武士は郊外の原野に配置し、半農半士の原方衆として農業生産にも役立てつつ米沢周辺の守備も担った。さらに兼続は米沢の治水の際に東に松川、西に堀立川を流して米沢の守備に生かしており、平城で不充分な守りを城下町全体の造りで補っている。

直江兼続が整備した米沢城下の図。

(写真:直江兼続が整備した米沢城下の図。)

米沢城本丸内にある上杉神社。神社は伊東忠太の設計。米沢城の本丸入口。現在は本丸跡と堀が残り、本丸内に上杉神社、稽照殿、招魂碑などがある。

(写真左:米沢城本丸内にある上杉神社。神社は伊東忠太の設計。)

(写真右:米沢城の本丸入口。現在は本丸跡とこれを囲む堀が残り、本丸内に上杉神社、稽照殿、招魂碑などがある。)

明治5年謙信公の御堂は上杉神社となり、上杉鷹山公も合祀された。明治9年に本丸内の現在地へ移ったが、その後、大火で焼失し、大正12年伊東忠太の設計で再建された。また明治35年には本丸東側の二の丸世子御殿跡に松岬神社が建てられ、鷹山公を上杉神社から遷座した。松岬神社にはのちに上杉景勝公、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政が合祀された。本丸南側の二の丸跡には明治29年中條精一郎設計の上杉伯爵邸(現上杉記念館)が築かれた。当時は「鶴鳴館」と称し、のち中央公民館としても利用された。

上杉記念館(上杉伯爵邸)の門。上杉家の宝物を収める「稽照殿」。直江兼続の甲冑などがある。

(写真左:上杉記念館(上杉伯爵邸)の門。)(写真右:上杉家の宝物を収める「稽照殿」。直江兼続の甲冑などがある。)