米沢鯉に一命を助けられた住職の話
ー上杉鷹山フェスティバル開催に因んで、米沢鯉の効用の話ー
ー 平成13年10月 ー
米沢鯉の由来 … 山国で魚介類の少ない米沢の蛋白源として、米沢藩9代藩主上杉鷹山公が
各家の庭に池を造り、鯉を飼うことを奨励したのが始まりだそうである。 とくに飢饉のときなど、
赤ん坊に飲ませる母乳が出ない母親のためにも、その栄養源とする目的もあったらしい。
滋養強壮に富み、米沢の鯉は「泥臭くない」と評判である。…東京の親戚もよく言っている。
米沢では、今でも結婚式や法事などの冠婚葬祭時には必ずといっていいほど、つきものとして
膳に上る料理である。
この寺「昌伝庵」の住職は、今年で満78歳になる。 (大正12年生まれ)
住職となって60年近くなるが、元々は寺の出ではない。在家出身である。
実家は織物業を営んでいたが、他人の保証人となり挙句の果ては家業が倒産の憂き目に遭い
住職が幼少の頃はかなり貧乏な暮らしをしていた。
住職が7歳の頃。病弱で,か弱く,あばら骨が浮き出ていた子供だったらしく、かつ重い腎臓病で
危篤状態となり医者から見放されたときがあった。 医者は、
「この子はもう駄目だ。残念ながら助からない。
今夜が山だから、せめて最後に何でも食べたいという物を食べさせてあげなさい。」
と、両親に言ったという。 (医者も匙をなげてしまった。)
せめて最後の望みをかなえてあげようと、両親が「何か食べたい物はないか?」 と聞いたところ
「 鯉の甘煮(うまに) が食べたい。」
と言ったそうだ。そこで両親はこの世で最後の食べ物として鯉の甘煮を買って食べさせたとのこと。
ところがそうしたところ、もう絶望的だと思われていた衰弱した身体が次第に元気を取り戻し、
病状が回復して、なんと一命をとりとめた … のだそうだ。
今でも住職は,「鯉の滋養強壮のお陰で一命をとりとめたのだ。」 と語っている。
… 貧乏だったので、普段あまり栄養を摂っていなかったのではないのかな?
その後、6人兄弟で2男だった住職は、小学校を卒業すると、近くの海応院住職西山法運老師
の援護を受け、当時荒廃していて復興中だった林泉寺に住み込みの身となり、伽藍や境内等の
掃除や草取り等をしながら、尋常高等小学校や夜間中学に通わせていただき、育った。
今の寺「昌伝庵」へは、昭和17年に前住職が亡くなり後継者が不在であった寺だったために、
縁あってここに後継者として迎えられ、そして住職となり現在に至っている。
住職曰く、 「“鯉の命”に助けられ、毎日元気に幸福に過ごしていられることは
ありがたい極みで、感謝に堪えがたい。」
合 掌
[後日談] このページを読んだと言う、読売新聞東京本社の記者から住職への取材依頼があり、
鯉の特集記事に住職の談話も掲載されました。 (平成14年3月20日の読売新聞)
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「黒猫ミャオの恩返し」
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