不思議な線香の現象の巻    ー 鹿児島の旅 での話 ー


  平成13年11月8日  永平寺の昭和51年上山者の会「悟一会」というのを毎年開催していて
 今年は鹿児島が会場で開催されました。 (ちなみに昨年は山形県開催で、私達が幹事でした。)
  普段 勤め人の私は、なかなか休みが合わなかったり取れなかったりして、参加できるのは本当に
 久しぶりのことでした。       −これは、その時の鹿児島の旅での話です。ー


  鹿児島行きの目的の二つ目。「知覧特攻基地訪問と慰霊」

  大事な人々や郷土を守るために、国や上官の命令とはいえ、
 顔で笑って心で泣いて行ったであろう、若き特攻隊員達。

  私達も、自己を空しくして仕えた永平寺修行僧だった者として、
 特攻隊員ではないのだが、その心境にはきっと同じ思いがあり、
 心中が察せられる。   心からご冥福を祈りたい。










       南州翁終焉の地で。
  鹿児島行きの目的の三つ目。「西郷隆盛の足跡を辿る。」

  征韓論で敗れ、鹿児島に帰った西郷隆盛。
 その後の西南戦争では、同じ薩摩出身の竹馬の友同士が、片や
 薩摩藩で片や政府側として戦い合わなければならなかった悲劇。

  因みに、西郷さんは戊辰戦争時に山形県の庄内にも来たらしい。
 庄内に住んでいた時に、ある人の先祖(庄内藩士)が陣地で見たと
 言う伝承を、子孫であるその方から直接聞いたことがある。
 「本陣の広い座敷の一番奥にドンと座っていた。」ということである。

  鹿児島行きの目的の四つ目。「薩摩の国の史跡を探る。」

  この写真は、国史跡「隼人塚」です。五重塔が3基見えますね。
 古くは「熊襲塚」とも呼ばれ、大和朝廷に反抗し、殺された熊襲・
 隼人を祀るために建てられたとか、正国寺跡など諸説があります。
 ここから車で約1時間行った所には、熊襲の穴と呼ばれる場所も
 あり、一説には日本武尊が熊襲を討った洞穴との説もある所で、
 当然そこも訪れてみました。古代からの由緒ある薩摩の旅でした。

 江戸時代、幕府の隠密が、行ったら最後二度と戻ってくることは
 無かったといわれる薩摩の国。まだまだ探りたい事ばかりでした。

 そろそろ、不思議な線香の話に入ろうと思います。

 今回、幹事を務めたのは鹿児島在住の鎌田厚志さんである。永平寺では私より1日早い上山。
彼は在家出身だが、東京でサラリーマンをしていたときに仏教に出会い、赤穂浪士で有名な高輪の泉岳寺に
入り、後に永平寺で修行し、関東地方の寺などに住持したが、鹿児島に戻り一軒家を購入して寺に改造し、
托鉢をしながら布教活動をしている僧侶である。その一軒家(寺)を、「直指庵」(じきしあん)と称す。

 11月9日(金)  悟一会の帰りに、皆で彼の住む直指庵に立ち寄ったときのこと。
 皆で般若心経を読んだとき、そこに立てた線香が、湿気の具合だろうか、写真のように紐を結んだような形に
なった。皆はそれを見て、この私達悟一会の縁が、このように固く結ばれているということが形に現われたので
あろうと、深く感慨にふけったのであった。

   
  こんなふうな結び目になりました。     別の線香も、ごらんの通り。   はじめに紹介した線香は、こんなにふうに
 なりました。



          追加の話 ; 鹿児島で発見 英語の語源  soy sauce = しょうゆ )

    英語で醤油のことを ”soy sauce
(ソイ ソース) と言います。今まで何故醤油をソイソースと呼ぶのか
   由縁が分かりませんでした。 ところが、鹿児島市内の郷土歴史資料館で、その謎が解明したのです。
    薩英戦争後に、その近代兵器のすごさを認識した薩摩藩はイギリスと貿易を始めますが、そのとき
   輸出した醤油を鹿児島弁のまま輸出しました。
(鹿児島弁で醤油のことを「そい」と言います。)
   それで、
醤油=ソイのままイギリスに渡り、醤油が英語で ソイソース (soy sauce) となったという。



 全国各地に知り合いがいるということは、実に有難いことです。いつ行っても地理案内してもらえます。

(ただし私の場合は草鞋を履いてではなく、
750ccの馬にまたがったりして行く不謹慎極まりない事が多い。)




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