上杉家
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上杉景勝(1555〜1623) 坂戸城(新潟県六日町)城主、長尾政景(上田長尾氏)の次男。上杉謙信の養子。母は謙信の姉、仙桃院。1559年5歳で叔父上杉謙信の養子となり元服し、喜平次顕景を名乗る。1564年実父長尾政景が宇佐美定満と舟遊中に事故で溺死。1575年上杉弾正少弼景勝と改名した。景勝は「御中城様」と呼ばれ、謙信の軍役に従う武将でもあった。1578年養父謙信が亡くなると同じく謙信の養子で実姉の夫、上杉三郎景虎(北条氏康の子)と謙信の跡目を争う(御館の乱)。景勝は謙信の遺言で相続したとして春日山城の本丸(実城)を抑えた。一方、景虎は前の関東管領上杉憲政の住む御館に入る。当初、実家北条氏の威を借りた景虎が優勢であったが、景勝は劣勢挽回のため、武田勝頼の家臣に賄賂を握らせ勝頼と和睦し、武田信玄の娘で勝頼の妹、菊姫を妻に迎えた。この結果、次第に形勢は逆転し、景虎側は関東からの援軍北条氏照、氏邦が雪のため撤退。北条景広は景勝勢に討たれた。上杉景信は景勝方の山浦国清(村上義清の子)に討ち取られた。御館の上杉憲政は景虎の子道満丸を連れて和解のため景勝のもとに赴くが二人とも斬殺された。景虎は妻とともに鮫ヶ尾城に逃れるが、城主堀江宗親の裏切りで追い詰められ自害した。こうして景勝は越後を統一したが、論功行賞のもつれで直江信綱が斬殺され、安田顕元は自害、新発田重家に至っては織田信長に通じて1581年反乱を起こした。景勝は重要拠点の新潟(新潟市)をめぐって新発田軍と攻防を繰り返し、1583年ようやく新潟を制圧。1586年信濃川対岸の沼垂を制圧した。港町新潟と沼垂の町人は武装商人で彼らが味方についたことが景勝にとっては大きかった。補給路を失った新発田城は1587年落城し、新発田重家は自害した。この間、1582年織田軍により越中魚津城が落とされ窮地に陥るが、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、越後の危機は去る。代わって信長の後継者となった羽柴秀吉に誼を通じた。1589年佐渡を平定した。翌年小田原攻めに参加し、松井田城、鉢形城、八王子城を攻略。朝鮮出兵にも参加。1596年には五大老に列せられた。1598年蒲生氏が移された後の会津に転封となる。会津、仙道、置賜、庄内、佐渡といった広範囲を領有し、百二十万石を数えた。景勝は新領地、会津で道路の整備、神指城築城などに取り組んだが、豊臣秀吉が没し、五大老筆頭の徳川家康が実権を握ると景勝の動きを謀反を企むものと決めつけた。これに対して景勝は徳川家康との対決姿勢を鮮明にし、家康から上杉征伐を受ける。だが家康の真の狙いは石田三成を挙兵させて反徳川勢力をまとめて潰すことにあったようで、上杉を攻めずに挙兵した石田三成率いる西軍と戦うために関ヶ原へ向かった。上杉軍は伊達や最上など東軍諸将に釘付けにされ、東北もまた戦の舞台となった。特に直江兼続率いる上杉軍が最上義光を攻撃して長谷堂城を包囲し、山形城に迫る勢いだったが西軍の敗報を受けて撤退した。一方、白石城は伊達政宗に攻略され、福島城まで攻め込まれた。戦後、米沢三十万石に移された。大坂の陣では鴫野口を守り、功を挙げた。この時、家康からねぎらわれたたが、景勝は「子どものケンカみたいなもので骨を折ることもありません」と答えた。景勝は家臣からも恐れられた。富士川の渡しで家臣が乗りすぎ船が沈みそうになったとき、景勝が無言で杖を振り上げると家臣は皆一斉に川に飛び込んだという。景勝の行列も共の者の誰も喋る者、咳をする者が無く、足音しか聞こえなかった。また景勝は笑顔を見せない男だった。あるとき飼っていた猿が景勝のマネをして、景勝の帽子をかぶり、腕を組んで家臣に指示する如く頷いていた。これを見て景勝は笑顔を見せたのだが、これが家臣に見せた生涯ただ一度の笑顔だった。
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菊姫(1558〜1604) 武田信玄の娘。上杉景勝の妻。大儀院。『本朝二十四孝』の八重垣姫のモデルともいう。1578年御館の乱が勃発し上杉景勝は謙信のもう一人の養子で実家小田原北条家がバックについている上杉景虎を相手に苦戦を強いられた。この状況を打破するため、景勝は武田勝頼の家臣に賄賂を贈り、武田家との同盟を成功させ、勝頼の妹菊姫を妻に迎えた。菊姫は賢夫人であったそうで倹約にもよく努め、弟武田信清も上杉家に迎えた。1595年秀吉の人質として京都伏見に住まうようになった。1604年京都上杉邸で亡くなり、米沢林泉寺に葬られた。
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武田信清(1563〜1642) 武田信玄の六男もしくは七男。景勝の妻菊姫の弟。大膳大夫。三郎。幼名大勝。当初僧となり玄龍と称したが、兄武田勝頼の命で還俗し、安田三郎信清を名乗る。1582年兄武田勝頼が織田軍に攻められ、天目山で自刃すると僧姿で高野山に逃れ、のちに義兄上杉景勝を頼って越後に赴き、その家臣として武田大膳大夫信清を名乗った。上杉家親族として高家衆筆頭に列せられ、代々米沢藩に仕えた。1642年80歳で死去し、林泉寺に葬られた。
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仙桃院(1523?〜1609) 長尾為景の娘。上杉謙信の姉。綾姫。坂戸城主(六日町)上田長尾氏の長尾越前守政景に嫁ぎ、二男二女を産む。長男義景は早くに亡くなり、1564年夫長尾政景も溺死する。次男顕景(後の上杉景勝)を弟上杉謙信の養子にし、二人の娘をそれぞれ謙信の養子上杉景虎(北条氏出身)と上条政繁(畠山氏出身)に嫁がせ、謙信一門を固めた。聡明な女性で上杉家を陰で支えていた人物であり、樋口与六(直江兼続)の才を見出し、わが子景勝の近習として取り立てたという。1578年謙信の死で景勝と景虎の家督相続争いが始まり、御館の乱が勃発。戦いは景勝が勝利し景虎とその妻(仙桃院の娘)は自害した。その後は景勝を支え続け、1609年米沢で亡くなった。
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直江兼続(1560〜1619) 樋口兼豊の長男。山城守。与六。後に名を重光と改める。坂戸城(新潟県六日町)に生まれる。坂戸城主長尾政景の次男で上杉謙信の養子、上杉景勝の近習となり、名将上杉謙信の感化を受けて育ったという。御館の乱の後論功行賞を巡って上杉家重臣直江信綱が毛利秀広に斬殺される事件が発生。景勝の命により信綱の寡婦お船と結婚して直江家を継承し、与板城主(新潟県与板町)となる。兼続は景勝の参謀として活躍し、豊臣秀吉の懐刀、石田三成との交流を深める。秀吉からも「天下の仕置を任せられる男」と高い評価を受け、豊臣姓を与えられた。景勝が秀吉の命によって会津百二十万石に転封されたときには、米沢城主となり四分の一の三十万石を領したという。秀吉没後、徳川家康が景勝の築城や道路整備を謀反ではないかと詰問した際、いわゆる「直江状」を家康に送って一つ一つに反論し、家康に挑戦したとされる。一説には関ヶ原の戦いは兼続が石田三成と共謀して起こしたものとするものもある。こうして関ヶ原の戦いでは西軍に属し、兼続は上杉軍を率いて山形の最上義光を攻めた。白鷹山を越えて畑谷城(山辺町)を落とし、城主の江口五兵衛光清を討ち取った。続けて志村伊豆守光安の拠る長谷堂城(山形市)を包囲攻撃したが、志村はよく粘り、逆に上杉方の上泉泰綱が戦死した。長谷堂城包囲中に西軍の敗報が届き、撤退を余儀なくされた。戦後、上杉家の所領は米沢三十万石に減らされた。兼続は米沢領の開発に努める一方、徳川家康の参謀、本多正信の次男政重を養子に迎え、徳川との関係改善に努めた。大坂の陣でも活躍した。兼続は民政家として優れており、米沢に入部してすぐの慶長年間には腹心の春日元忠を高畠城代に据え、赤湯白龍湖周辺の湿地帯(大谷地)開拓を推進している。米沢市内を流れる最上川には「直江石堤」と呼ばれる堤防を築き洪水を防いだ。領内の主要街道には一里塚を置き、整備している。米沢の城下町整備にも力を入れ、下級武士達を南原など米沢周辺の原野に配し、守備に開発に役立てた。軍備も怠り無く、白布温泉に鉄砲鋳造工場を建設した。この鉄砲は大坂の陣で大いに活躍したという。兼続の逸話に次のようなものがある。「上杉家中の者(三宝寺勝蔵とも横田式部ともいわれる)が些細なことで下人を殺害したため、下人の親類が怒って下人を返せと騒いだ。兼続は銀二十枚を出して弔うように宥めたが、親類は返せの一点張りで埒があかないため『ならばお前達が直接行って閻魔大王に頼んで来い』と親類を殺して閻魔大王宛ての高札を立てた。」兼続の為政者としての優秀さと厳しさをあらわす話として伝えられている。兼続はプライドも高く、伊達政宗が懐から黄金の大判を取り出して己の財力を諸大名にひけらかしていたところ、自分に回ってきた大判を扇で受けて羽根つきのようにひっくり返して眺めた。政宗が手にとって見ても差し支えないと言うと兼続は「自分の手は謙信公の時代から采配を取ったもので、こんないやしい金銭は手に取るのも穢らわしいので扇に乗せて見ているのだ」と言い、大判を政宗に投げ返したという話も残されている。兼続はたいへんな学問好きであり、城を落とせばまず書庫を探して書物を集めたと言われるほどであった。特に朝鮮出兵では宋版『史記』『漢書』『後漢書』といった貴重な史書を得ている。自らも直江版文選といわれる『五臣註 文選』を著している(『文選』は中国の南北朝時代に梁の昭明太子が編纂したもの)。また学問所「禅林文庫」を設立し、のちに藩校興譲館につながる米沢藩の学問の基礎をつくったとされる。
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お船(1559〜1637) 直江実綱(景綱)の娘。直江兼続の妻。貞心尼。直江家には男子が無かったため、当初惣社長尾家の信綱を婿に迎えたが、1581年御館の乱の論功行賞に不満の毛利秀広が直江信綱と山崎秀仙を春日山城内で斬殺した。このため景勝の側近で信任の厚い樋口与六兼続を婿に迎え、上杉家重臣直江家を存続させた。兼続を内助の功で支えた。主君景勝の子定勝(第二代米沢藩主)を養育し、定勝もお船になついた。1615年兼続との嫡子直江平八景明が22歳の若さで病没し、娘婿で養子の直江勝吉(本多政重)も妻が亡くなったため上杉家を去り、加賀前田家臣となった。このため、直江家は断絶が決まった。1637年江戸鱗屋敷で81歳で亡くなる。
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直江景明(1594〜1615) 直江兼続の嫡男。平八。幼名竹松。当初、兼続お船夫妻には実子がなく本庄繁長の三男長房を養子に迎えたが景明の誕生で長房は養子縁組を解消する。しかし景明は生来病弱だったといい、その後本多正信の次男政重を養子に迎えることとなる。1609年には本多正信の媒酌で膳所藩主戸田氏鉄の娘と結婚。1611年、政重や長房など兼続の養子が上杉家を辞して前田家に移ったことで直江家の正式な後継者となる。1614年大坂の陣では鴫野の戦いで戦功を挙げて徳川秀忠より感状を与えられたものの翌年、病に倒れ亡くなる。このため跡継ぎのいなくなった直江家は断絶することになる。米沢と福島の境にある五色温泉は病弱な景明の眼病を治すために開かれた湯治場という。
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本多政重(直江勝吉)(1580〜1647) 直江兼続の養子。本多正信の次男。1597年徳川秀忠の乳母の子を斬って徳川家を出奔。武勇に秀で、大谷吉継家臣を経て宇喜多秀家の家臣となる。1600年関ヶ原の戦いでは同僚明石全登とともに宇喜多軍を率いて東軍を相手に奮戦した。戦後近江堅田に隠棲したが、前田利長や小早川秀秋から仕官の誘いがあり、一度はこれらを断り高野山に入った。その後福島正則、前田利長に仕えたが旧主宇喜多秀家配流を知り、同行を願うも叶わなかった。1604年上杉景勝に仕え、直江兼続の長女を娶って直江家の養子となり直江勝吉を称した。しかし、1611年妻が亡くなり、直江兼続の養女(大国実頼の娘阿虎)を後妻に迎えるも結局、直江家臣団の一部を連れて前田家に戻る。前田家では幕府との交渉役として活躍し、前田家家老としては最高の五万石を得た。1614年大坂の陣にも出陣し、真田丸に拠る名将真田幸村に挑んだが敗北した。上杉家を去った後も直江兼続を義父として敬ったという。
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本庄長房(直江与次郎)(1580〜1643) 直江兼続の養子。本庄繁長の三男。1593年直江兼続の養子となるも、翌年兼続に嫡男景明が誕生したため、本庄家に戻ることになる。しかしその後も直江家との関わりがあり、その後兼続の養子となった本多政重・阿虎夫妻が直江家を出て加賀前田家に仕えた際は他の直江家臣団とともに前田家に移り、鉄砲組頭を務め、大坂の陣で戦功を挙げた。養父直江兼続、さらにその妻お船が亡くなり、直江家の後継者がいなくなると米沢藩主上杉定勝に請われて上杉家に帰参した。その後は実家本庄家が城代を務める福島城に入った。娘は武田信清の嫡男に嫁いだ。長房の子孫は本庄一族の鮎川家を名跡を継いで鮎川氏を称した。
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樋口兼豊(?〜1602) 直江兼続、大国実頼の父。伊予守。長尾政景家臣であったが1564年長尾政景溺死の後、上杉謙信に仕えた。1578年謙信の死で養子景勝と景虎が争う御館の乱が勃発。兼豊は景勝の配下として活躍し、直峰城主(安塚町)となる。主家の会津移封、米沢移封に従う。樋口家は三男である与八景兼が継いだ。
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大国実頼(1562〜1622) 直江兼続の弟。与七。1582年小国重頼の養子となり、後に命により大国姓に改めた。1586年新発田重家討伐に従軍した。聚楽第完成の際は豊臣秀吉への賀使を務めた。1598年上杉家会津移封の際は南山城代(田島町)となる。米沢移封後は高畠城代(高畠町)を努めた。1602年亀岡文殊での歌会で出題者を務める。しかし本多政重を養子に迎えるかどうかで兄直江兼続と仲違いして高野山に出奔。兼続が没した後、秘かに上杉領内に戻り、中郡で没したという。娘阿虎は直江兼続の養女となり、本多政重に嫁ぐ。大国家は弟の樋口景兼の子孫が受け継いだ。
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尾崎重誉(?〜?) 三郎左衛門。尾崎氏は信州飯山に勢力を張った泉一族(悪源太源義平の子孫)で戦国期には尾崎重歳(泉弥七郎重歳)が上杉謙信に従った。直江氏の出とされる兼続の母は実際はこの尾崎重歳の娘で蘭子と称した。重歳の曾孫にあたる尾崎重誉はその縁から兼続に従い、1598年に兼続が米沢の地を与えられると重誉は熊野大社の門前町で北条郷の要衝である宮内の宮沢城主となった。重誉自身は半年で福島に移り、間もなく亡くなるが、宮内には今も泉氏族の氏神である和光神社や重誉の祖母が開基した蓬莱院が残る。また尾崎氏に仕えた家臣団(安部氏、板垣氏、嵐田氏ら)が宮内に残り、のちに安部右馬助綱吉が宮内や北条郷の開発に努めた。後に直江氏の菩提寺である徳昌寺が破却された際、兼続夫妻の位牌は尾崎氏の菩提寺である東源寺に移された。
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安部綱吉(1569〜1646) 菅原内膳の子。右馬助。十市。菅原内膳は越後安部里を領していたが、本庄繁長と戦い討死し、内膳の子十市は小国、梨郷と渡り歩き、宮内(南陽市)に落ち着き、安部右馬助綱吉を称したと伝えられるが、実は信州尾崎氏の家臣で1598年の上杉家入部で信州飯山城主から宮内の宮沢城主となった尾崎重誉に付き従い宮内に移住した。尾崎氏が福島に移った後、宮内に土着した。1600年他の尾崎家臣らとともに倉賀野綱元の与力として小滝口(南陽市)から最上領に侵攻して長谷堂城(山形市)を攻め、武功を挙げた。その後、宮内の町割を行い、北条郷(南陽市一帯)の荒地の開発を推し進めた。吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した。1629年代官兼金山奉行となり金沢、大洞など赤湯(南陽市)周辺の金山を経営した。77歳で没し、息子綱正が開基した宮崎の綱正寺に葬られた。
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色部光長(1587〜1640) 色部長実の子。長門守。与三郎。綱長。幼名龍松丸。平林城主(神林村)。色部長実は病弱の兄顕長に代わって家督を継いだ人物で新発田重家の乱の鎮圧や仙北一揆の鎮圧解決に奔走し、仙北住民の信を得て保呂羽権現の御神体を預かり持ち帰った。軍法、馬術、様々な学芸に通じ、豊臣秀吉からも高く評価されたが、朝鮮出兵で病にかかり、1592年40歳で亡くなった。光長は幼少ながら父の跡を継ぎ、長実の遺言で直江兼続の妹(次女という説も)を妻にし、兼続の後見を受けた。朝鮮出兵に参加。宮内の北側を守る金山城主(南陽市)となる。1600年「慶長出羽合戦」では倉賀野綱元の与力として小滝口から最上領に侵攻し、長谷堂城(山形市)の志村伊豆守光安を攻めるが城を落とせぬまま、関ヶ原で西軍が敗退し、撤退した。上杉家が米沢三十万石に減封された後は窪田(米沢市)を知行とし、千眼寺を建立した。千眼寺の保呂羽堂では毎年十二月に裸餅つきが行われる。大坂の陣にも出陣している。色部家は江戸時代を通して上杉家重臣として活躍している。
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泉沢久秀(?〜1615) 河内守。上田衆。尾崎重誉の姉を妻とした。1578年御館の乱では景勝方で戦う。1598年景勝の会津移封で荒砥城代(白鷹町)となる。荒砥は対最上の最前線にあたり、1600年の最上義光攻めでは直江兼続は荒砥から畑谷攻めに出撃した。
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志駄義秀(1560〜1632) 志駄義時の子。母は直江景綱の娘で直江家の血を引く。修理亮。源四郎。1561年川中島合戦で父が戦死したため、2歳で家督を継ぎ、夏戸城主(寺泊町)となる。直江氏の庇護を受けて成長し、直江兼続配下の与板衆として活躍した。1582年には越中松倉城将として織田軍と対峙。直江兼続の配下として庄内地方の経営に尽力し、1598年上杉景勝の会津転封に際して東禅寺城主(酒田市)となる。また庄内と米沢を結ぶため朝日山系を越える朝日軍道の開削に務めた。1600年、関ヶ原の戦いでは最上義光が東禅寺城攻略と庄内進出を図ったため、上杉は最上義光を攻撃することを決めたともいう。義秀も上杉軍別働隊として最上川を遡り、最上領に進撃したが、関ヶ原での西軍敗退により最上義光が逆襲に転じ、撤退。1601年最上義光は最上方に降伏した下吉忠を先鋒に庄内に侵攻。義秀は持久戦を展開したが、ついに東禅寺城は落城して朝日軍道を伝って米沢に落ち延びた。1603年改めて荒砥城代(白鷹町)に任ぜられた。平林正恒没後は米沢奉行を務めた。1622年には最上家改易の仕置に奉行として立ち会うこととなる。息子秀富は剣豪上泉家を継ぎ上泉主水秀富を名乗った。姓の志駄は志田と書かれることもある。
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本庄繁長(1539〜1614) 本庄房長の子。雨順斎全長。弥次郎。本庄城(後の村上城)(村上市)城主。父房長は伊達実元の越後上杉家入嗣問題に際して、弟小川長資と一族鮎川盛長によって本庄城から追われ、猿沢城(新潟県朝日村)に逃れた。繁長は猿沢で生まれ、父の遺志を継いで1551年13歳で叔父小川長資を討って本庄城を奪回した。1558年上杉謙信に謁見し、上杉軍の精鋭として活躍するようになる。揚北衆では中条藤資に次ぐ実力者となり、1561年川中島の合戦ではその奮戦ぶりに対し、謙信から「血染めの感状」をもらうほどであった。しかし恩賞は無く、同僚と謙信の采配を批判したところ繁長に同僚を討伐させたため、謙信に不信感を持つようになった。そんな時、繁長は武田信玄から謀反の誘いを受け、庄内の武藤義増や一族の鮎川盛長、色部勝長、中条藤資らに声をかけ挙兵せんと図った。だが武藤以外は誰も同調せず、逆に中条が謙信に急報して、1568年謙信の討伐を受けることになった。繁長は籠城して抵抗するが、武藤義増は謙信に寝返り、武田信玄も救援に来ないため、ついに翌年芦名盛氏と伊達輝宗が仲介して謙信に降伏した。繁長は嫡子顕長を人質に出して再び、謙信の配下となる。1578年謙信が没し、御館の乱が起きると上杉景勝の家督相続のために戦った。しかし景虎方の重鎮上杉景信の娘を妻としていたこともあって嫡男の顕長は景虎方についたため、顕長を廃嫡した。上杉景信失脚後はその名跡を継ぎ、上杉一門として遇されたという。一方、次男義勝を庄内の武藤義興の養子とし、庄内への影響力も強めたが1587年最上義光の庄内進出で武藤義興が自害し、息子義勝が逃れてくると、1588年庄内奪回のために兵を出した。十五里ヶ原の戦い(鶴岡市)で最上軍を撃破し、敵将東禅寺筑前守義長を討取った。その弟、東禅寺右馬頭勝正が一太刀報いようと繁長に斬りつけたが、返り討ちにして名刀「正宗」を手に入れたという。しかし1590年の奥州仕置の際、仙北検地で同僚の色部長実と諍いを起こし、その後仙北一揆が発生。さらに庄内で発生した藤島一揆を扇動した疑いをかけられ1591年息子武藤義勝ともども所領を没収され、浪人する。代わって廃嫡されていた顕長が父に代わって蒲原郡に所領を持つものの1597年伏見城舟入普請の不手際で上杉家を追放された。一方、繁長は朝鮮出兵の際、上杉家臣に復帰し、上杉家の会津転封に付き従って福島城主(福島市)となる。1600年関ヶ原の戦いでは伊達政宗に福島城を攻められたが、政宗を引き付けて槍で猛攻撃し、梁川城の須田長義に命じて政宗の背後を突くという巧妙な戦術で政宗を撃退し、陣幕まで奪った。武田信玄、上杉謙信、最上義光、伊達政宗と数多の名将を相手に戦い抜き、これを撃退した勇将で、馬術でも「一に謙信二に繁長北条桃井負けず劣らず」と評された。
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本庄充長(大宝寺義勝)(1573〜1623) 上杉家臣本庄繁長の次男。千勝丸。尾浦城主武藤義興の養子となる。養父義興が最上義光に寝返った東禅寺義長らに討たれると、辛うじて小国城(温海町)に逃れた。義勝は実父本庄繁長の援軍を得て庄内を攻撃。十五里ヶ原の戦いで仇の東禅寺義長・勝正兄弟を討ち取った。最上義光は「惣無事令」に違反していると豊臣秀吉に訴えたが、本庄・武藤父子の主張が認められ庄内を領有した。1588年には秀吉に拝謁し、太刀などを献上し、翌年には出羽守に任ぜられたが、1591年一揆扇動の嫌疑により所領没収。庄内は上杉氏が直接支配するようになった。兄の顕長は御館の乱で景虎方について廃嫡となっていたが、繁長と義勝が所領没収されると上杉景勝に仕えて蒲原郡に所領を得るも伏見城舟入普請の失態で1597年上杉家を追放された。繁長と義勝は1593年、朝鮮出兵の際に許されて上杉家に帰参しており、1614年父繁長が死去すると本庄家を継いで本庄充長を名乗った。大坂の陣にも参陣した。
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須田長義(1579〜1615) 須田満親の子。須田氏は信濃の豪族だったが、1553年武田信玄の侵攻により、父須田満親は越後に逃れ、上杉謙信に仕えた。兄、満胤は直江兼続の妹を妻にしたが伏見城舟入普請で不手際を演じたため、柿崎憲家、本庄顕長らとともに上杉家を追放された。満胤の妻子は本庄繁長に身を寄せ、長義が須田家を継ぐ。上杉家の会津移封で梁川城主(梁川町)となり、1600年関ヶ原の戦いに際して伊達政宗が梁川城を攻めたが福島城の本庄繁長との協力で撃退した(松川の戦い)。1614年大坂冬の陣でも鴫野の戦いで後藤又兵衛と戦い、のちに徳川秀忠から感状を受けたが、翌年傷が悪化して死去した。兄の子満統が須田家を継ぐ。
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春日元忠(?〜1608) 信濃更級郡の出身。旧武田家臣。1582年の武田家滅亡で、上杉景勝に仕える。専ら直江兼続のもとで活躍し、兼続の絶大な信頼を受け「直江被官の棟梁」と呼ばれた。1584年信濃青柳城主。1591年庄内で起きた一揆を鎮圧した。この件で所領没収となった本庄繁長の居城本庄城(後の村上城)(村上市)に入る。1598年主家の会津転封に際し、高畠城代(高畠町)となる。高畠では白龍湖周辺の湿地帯大谷地の開拓を進めた。1600年には直江兼続について最上義光攻撃に参加し、長谷堂城包囲を行っている。関ヶ原での西軍の敗報を受け、最上義光に追撃されたが撤退に成功した。主家の米沢転封後も高畠城代を務め、1602年には直江兼続主催の亀岡文殊での歌会に前田慶次、安田能元、岩井信能、大国実頼らとともに参加している。1603年からは米沢奉行も務めた。
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岩井信能(?〜1620) 信州飯山に勢力を持った泉氏の一族。岩井満長の子。備中守。父は信濃岩井城主だったが、越後の上杉謙信に仕えた。1581年御館の乱の論功行賞の不満から毛利秀広が重臣直江信綱と山崎秀仙を斬殺したときは居合わせた信能が毛利秀広を討取った。1582年飯山城主(飯山市)となる。翌年、飯山城下の整備を行っている。1598年主家の会津転封に従い、宮代城に移る。1600年の関ヶ原の戦いでは一時福島城を守る。1602年亀岡文殊(高畠町)で行われた歌会に参加した。1614年大坂冬の陣に出陣している。大石綱元(のち水原親憲)、安田能元と並ぶ会津三奉行の一人で茶の湯の達人であったという。
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安田能元(1543〜1622) 安田景元の子。顕元の弟。上総介。御館の乱では兄顕元とともに上杉景勝の家督相続のため戦った。1580年恩賞が少ないため新発田重家が謀反したことの責任を感じて兄顕元が自害。能元が跡を継ぎ安田城主(柏崎市)となる。1598年主家の会津転封に伴い、二本松城代(二本松市)となる。直江兼続の下で奉行を務め、大石綱元や岩井信能とともに会津三奉行と呼ばれた。1600年関ヶ原の戦いの後も一戦交えようと主張したが景勝に抑えられた。1602年には亀岡文殊の歌会に参加している。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで水原親憲とともに豊臣軍を撃退する活躍を見せた。しかし水原は感状をもらったが能元はもらえず「俺は殿(景勝)のために戦っている。この程度の手柄を申し上げるまでもない。公方(徳川)のために働く必要など無い。公方の感状などは面目でもなんでもない」と言ったという。
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水原親憲(1546〜1616) 大関親信の子。常陸介。弥七。越中の出身で上杉謙信に仕える。1561年川中島の合戦で活躍した。1582年水原満家が新発田重家の謀反軍との戦いで戦死したため、水原氏を継ぎ、水原城主(水原町)となる。1598年上杉家の会津転封に従い猪苗代城代(猪苗代町)となる。1600年徳川家康の会津征伐の際、石田三成が上方で挙兵したという報を受け、家康が上方に向ったが、それをほかの家臣が喜ぶ中、家康が戻れば三成は敗れ、上杉は孤立してしまうと冷静に見ていた。続いて直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。長谷堂城を攻めるがなかなか城を攻め落とせず、清水義親と楯岡光直の最上軍が救援にやってきたが、水原は鉄砲隊を率いて須川で待ち伏せて最上軍を撃破した。予想通り関ヶ原で西軍が敗北した知らせを受け、撤退に転じる。最上義光はここぞと追撃を仕掛けるが富神山まできたところで伏兵となっていた水原の鉄砲隊が最上義光を攻撃した。義光は水原の退路を絶とうとしたが、そこへ直江兼続、前田利大らが最上軍に攻めかかり食い止めた。結局、最上義光は追撃を断念。撤退に成功した。1614年大坂冬の陣にも出陣し、鴫野の戦いでは大野治長ら豊臣軍一万二千に五千の上杉軍が攻撃された。第一陣須田長義が押されて後退したところ、第二陣の水原は鉄砲隊で豊臣勢を攻撃。そこへ横から安田能元が攻めかかり、豊臣勢を撃退した。この働きに対して徳川秀忠は水原に感状を与えたが水原は「こんな戦は子供の石合戦のようなもの。昔は今日死ぬか明日死ぬかという戦いでも感状などもらえなかった。こんな花見みたいな戦で感状がもらえるとは笑い話じゃ」と言ったという。1601年大石綱元が亡くなった後、会津三奉行の一人になったという。また将軍家が手紙に「水原」と書くところを「杉原」と書いたため、杉原に改姓したともいう。
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甘粕景継(?〜1611) 登坂清高の子。上田衆。備後守。1577年上杉謙信の命で甘粕家を相続。護摩堂城主(田上町)、五泉城主(五泉市)を経て1591年要地である東禅寺城主(酒田市)として酒田を統治し、水路の開削や米倉の増築、平田郷開田などを行う。1598年上杉景勝の会津転封の際に、白石城主(白石市)となる。1600年関ヶ原の戦いで伊達政宗が白石城を攻めた際は、相談のため城を留守にしており、一族の登坂氏の裏切りで城を奪われてしまった。槍と長刀の名手であったともいう。その後、一族の甘粕右衛門信綱(ルイス)らはキリシタンであったため1628年米沢北山原で処刑された。
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平林正恒(1562〜1622) 平林正家の子。旧武田家臣。武田勝頼の命で信濃上尾城主から信濃牧ノ島城主となる。1582年主家滅亡により上杉景勝に仕える。1594年伏見舟入普請を担当。1598年の会津転封で白河城代(白河市)となる。関ヶ原の戦いの後、米沢に転封された後は福島城で伊達・信夫郡の奉行を努めた。1608年春日元忠の後を受けて米沢奉行となる。
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清野長範(1573〜1634) 平田輔範の子。周防守。助次郎。旧芦名家臣。1589年芦名家が伊達政宗に滅ぼされると浪人となり、越後に逃れて木戸元斎に仕えた。のちに上杉景勝に近侍し、景勝の信頼を得て重用される。1592年信濃の豪族清野家を継いだ。1598年景勝の会津移封で出身地会津に戻り、伊南城代となる。1601年上杉家の減封で米沢に移り、1633年米沢奉行となる。長範は容貌が非常に美しく、才智があったため景勝に愛され、旧芦名家臣では異例の出世を遂げた。気性が激しい景勝を相手に一度も機嫌を損ねることが無かったともいう。景勝臨終の際、景勝は長範に来世で会うため自分と同じ導師にせよ指示したという。
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千坂景親(1536〜1606) 千坂景長の子。対馬守。鉢盛城主(笹神村)。1578年上杉謙信没後の御館の乱では景勝に属し、武田勝頼との同盟を成功させ、景勝の家督相続を助けた。1582年織田信長によって滅亡寸前の武田家救援のため、信濃海津城に出陣した。のちに京都伏見留守居役を勤め、関ヶ原の戦いの後、上杉家存続のため本多正信と和平交渉に努めた。1603年米沢藩初代江戸家老となる。
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前田利大(1542〜1612) 前田利久の養子。前田利家の甥。実父は滝川一益とも益氏とも。利益。利治。慶次郎。叔父前田利家に仕えていたが傾き者で奇行で有名だった。数々のエピソードがあるが、叔父で主君の前田利家を悪戯で水風呂に入れて前田家を出奔したという。その後上杉景勝の家臣となり、穀蔵院ひょっと斎と称したという。「大ふへんもの」と旗指物に書いて皆が「大武辺者」とは何事かと怒ったのを「大不便者」じゃとケムに巻いた話とか、勝手に朱槍を用いて他の武将が怒り、他の武将にも朱槍を許すことになったとか、林泉寺の和尚を碁の罰ゲームにかこつけて殴った話とか多数の話が残る。1600年直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。しかし最上方の長谷堂城はなかなか落ちず、関ヶ原で西軍が敗れた知らせを受け、撤退する。最上義光はこれを追撃したが、利大はこの退却戦で奮戦し、撤退を成功させた。続いて伊達政宗が福島城を攻めた際は伊達軍に一騎打ちを求め、槍で相手の頭をたたいて気絶させ相手に小便をかけ、自陣へ帰った。戦後は米沢郊外の堂森にある庵に隠居したが、ここでも「兜をむくる」と村人を集めておいて、ただ兜を後ろ向きにするという奇行をやっている。1602年には亀岡文殊で直江兼続が開いた歌会に安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らと参加している。利大はただの変人ではなく、当時の風俗がわかる『前田慶次道中日記』も書き残している。
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上泉泰綱(1552〜1600) 新陰流の祖、剣聖上泉伊勢守信綱の孫(次男ともいう)。主水正。憲元。浪人していたが前田利大らとともに上杉景勝に仕えるようになった。1600年関ヶ原の戦いが起こると上杉軍も最上義光を攻め、上泉も直江兼続に従い最上を攻める。しかし長谷堂城はなかなか落とせず、上泉は敵に突撃を仕掛け、援軍の伊達勢と壮絶な戦いを演じるがついに上泉は討死した。
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車斯忠(?〜1602) 佐竹家臣。丹波守。1571年佐竹家重臣和田昭為を讒言により白河結城氏のもとに追いやり、佐竹義重の側近として活躍。1593年朝鮮出兵では肥前名護屋城に赴いた。関ヶ原の戦いの前に上杉景勝に仕え、1600年関ヶ原の戦いでは福島城、梁川城に在番。これは中立の立場をとる佐竹氏が上杉家に助力するため、車を送り込んだものともいう。須田長義の配下として松川の戦いで伊達政宗を撃退する。戦後、常陸に戻るが、1602年佐竹氏の秋田移封に反対し、水戸城奪回を企てたが捕らえられて殺された。その一族は将軍家に仕え、代々車善七を称して非人頭を勤めたという。
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下吉忠(?〜1614) 対馬守。実秀。尾浦城主(鶴岡市)。父下土佐守秀忠は小田原北条氏に仕え、1590年小田原征伐で戦死した。吉忠は上杉家に仕え、1593年庄内河南(田川郡など)の代官となり尾浦城主(鶴岡市)を勤めた。1600年関ヶ原の戦いでは上杉軍別働隊として、庄内から六十里越を越えて最上義光を攻め、白岩城(寒河江市)、谷地城(河北町)を奪う。しかし、直江兼続が西軍の敗報を受けて無断撤退したため取り残され、そのまま最上義光に仕える。最上軍の庄内侵攻の先陣を勤め、尾浦城主に返り咲いた。義光の長男義康謀殺に加担し、家臣を使い義康を殺害。家臣を抹殺し、責任を免れた。同じく上杉から最上に鞍替えした原八右衛門も加担していたが、こちらは責任を取らされ打ち首となった。しかし1614年清水大蔵大輔義親と通じていた一栗兵部が鶴岡城内で志村光清と下吉忠を襲撃し、二人とも討ち取られた。のち最上家が改易になると養子の下秀政は上杉家に戻った。
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横田旨俊(?〜?) 式部少輔。芦名旧臣。芦名家没落後、越後に移って直江兼続の配下となった。主家の会津転封後、対最上義光の最前線、中山城主(上山市)となる。1600年最上義光を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛らと里見民部が守る上山城(上山市)を攻めるが、敵の援軍草刈志摩守も到着し、物見山の戦いで敗北。この戦いで本村親盛が討死した。また横田氏は赤湯に開田し、後に横田家中の者十九家が赤湯北町に移り住み、今もその子孫が残るという。
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篠井泰信(?〜?) 1600年最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、本村親盛らとともに上山城(上山市)を攻めるが、里見民部、草刈志摩守率いる最上軍と物見山で戦い敗北。直江兼続の妹を妻にしたといい、本多政重らとともに加賀前田家に移る。
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本村親盛(?〜1600) 造酒亟。最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、篠井泰信らと上山城を攻めるが、敵将里見民部、草刈志摩守との物見山での戦いで討死した。
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山浦国清(1546〜?) 村上義清の子。蔵人。源吾。景国。上杉謙信に仕え、沼垂郡笹岡の山浦氏を継ぐ。謙信の側近として活躍し、1578年御館の乱では景勝方で活躍し、功により景国と名を改める。1582年織田信長が本能寺の変で死ぬと、村上氏旧領の北信濃に進出して海津城主となったが、一族が徳川家康に内通した責任により召還された。この件で家は没落し1598年景勝の会津移封で塩松城代となったが、以後の消息は知れない。一説では関ヶ原の戦いで米沢減封となった際に上杉家を退散したともいう。のちに景勝の妻四辻氏の甥でキリシタン公卿の猪熊光則がキリスト教迫害を逃れ米沢の上杉家に仕えて山浦氏を継ぎ、山浦玄蕃を称した。だが弾圧の激化により1653年玄蕃は米沢で斬首された。
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大石綱元(1532〜1601) 武蔵国の大石氏の一族。播磨守。山内上杉憲政の家臣だったが、のち上杉謙信に仕える。御館の乱で景勝につき、会津移封後は保原城代(保原町)となる。安田能元、岩井信能とともに会津三奉行に数えられた。色部長実が亡くなった際は木戸元斎とともに長実の遺言(嫡男の光長に直江兼続の次女を娶らせて兼続に後見してもらいたい旨)を直江兼続に取り次いでいる。
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黒金泰忠(1564〜1635) 黒金景信の養子。島倉泰明の子。上野介。1599年神指城築城の総奉行を勤めた。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで活躍し、徳川秀忠から感状を受けた。1620年江戸城石垣普請や1629年江戸城堀普請の総監も勤めた。
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芋川正親(1539〜1608) 芋川正章の子。越前守。元武田家臣だったが1575年上杉謙信に仕える。1586年信濃牧之島城主。1590年大宝寺城(鶴岡市)を守備したが庄内の検地反対一揆に敗れて落城。1598年会津移封で白河城代(白河市)。1601年米沢減封後は大森城代(福島市)を勤めた。
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松本助義(?〜1600) 伊賀守。1598年上杉家会津移封により小国城主(小国町)となる。1600年尾浦城(鶴岡市)を守るが最上軍の攻撃で討死した。その後、松本家は篠井泰信の弟高次が継いだ。
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大熊信次(?〜?) 直江兼続の近侍で稲富一夢祐直に稲富流砲術を学び、米沢藩砲術の重職となった。稲富流砲術は米沢藩に伝わり、上杉鷹山も稲富流砲術の名手であった。
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佐野清順(1576〜1650) 明鏡院。養源坊。修験者であった。天正年間の末、直江兼続は庄内を平定すると清順を羽黒山主とした。関ヶ原の戦いの後は米沢に移り、羽黒山別当として領内の修験を支配した。後に還俗して玄誉を称し、お伽衆として儒学・兵書を講義した。
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