山形歴史紀行

伊達政宗

「伊達政宗」…米沢城主。その武略で南奥羽に覇を唱え、秀吉・家康とも渡り合い、天下を狙った。「独眼龍」。

仙台城の伊達政宗像

 

伊達時代(〜1591)

伊達稙宗(1488〜1565)[号:直山]

伊達家14代目。伊達尚宗の次男。左京大夫。奥州探題の大崎氏を超える力を誇り、前例の無い陸奥守護職を得た。伊達氏は本来、福島県伊達郡の領主であるが、8代宗遠、9代政宗父子の時、長井氏を滅ぼして山形県置賜郡を制圧し、伊達郡の桑折赤館城と置賜郡の高畠城を半々居城とした。この頃既に伊達氏の武威は奥州随一とされている。1514年に長谷堂(山形市)で最上義定を破り、妹を義定の妻に送り込み、最上氏を事実上伊達の傀儡政権にした。最上一族の反発が続く中、義定の没後は最上一族の中野氏から2歳の幼児、最上義守を迎えて当主の座に据えた。1536年大崎氏に内紛があった際は内紛を解決できない当主大崎義直の要請で古川城(古川市)の古川刑部大輔持煕や岩出山城(岩出山町)の新井田頼遠を滅ぼして大崎氏に介入し、次男(大崎義宣)を大崎氏の養子に送り込む。このように稙宗は数多くの子どもや一族を近隣諸将との政略結婚・養嗣子に利用し、大いに勢力を拡大している。また内政面では半田銀山に近い伊達郡の西山城(桑折町)を本拠とし、戦国最大の分国法『塵芥集』を制定した。だが皮肉にも彼の外交の特徴、養嗣子政策が引き金となり、天文の乱(洞の乱)(1542〜1548)が起こる。三男の伊達実元を精兵百騎をつけて越後守護上杉定実(?〜1550)の養子に送り込もうとした際、嫡男の晴宗が中野宗時ら家臣に担がれて「有能な家臣を他国にやり、国の中が空虚になっている」として父に謀反し、実元の越後行きを武力で阻止し、稙宗を西山城に幽閉したのである。事件の背景には『塵芥集』と前後して制定された『棟役日記』『段銭古帳』の田畑に課する特別税をめぐる稙宗と家臣団の対立があったという。稙宗は間もなく小梁川宗朝の手により西山城を脱出。稙宗方には養子に出した大崎義宣、葛西晴胤、伊達実元ら息子のほか、会津地方の有力大名芦名盛氏(1521〜1580)をはじめとする相馬顕胤、田村隆顕、二階堂輝行など稙宗の娘婿にあたる近隣の諸豪族、稙宗が擁立した山形の最上義守がついた。一方晴宗方は晴宗の妻久保姫の実父岩城重隆、大崎氏本来の主大崎義直、稙宗の弟の留守景宗、そのほか中野宗時をはじめとする桑折氏、白石氏、小梁川氏などの伊達家家臣がついた。当初、稙宗方が優勢で西山城を奪回し、晴宗は白石城に逃れたが芦名盛氏が晴宗方に寝返ったことで戦況は逆転。長井(置賜地方)を晴宗に押えられ、最上義守らも晴宗方に寝返る。事此処に至り田村隆顕が父子の和解を策し、1548年13代将軍足利義輝が停戦を命じ、稙宗は家督を晴宗に譲り、丸森城(丸森町)に隠居することになった。だが、この天文の乱は伊達氏と相馬氏との関係を悪化させ、その後も続く伊達氏と相馬氏の戦いの原因となった。また、稙宗は置賜と越後を結ぶ交通路整備に取組み、1521年大里峠を開削し、現在の山形県小国町と新潟県関川村を結んでいる。

伊達晴宗(1519〜1577)[号:保山]

伊達家15代目。伊達稙宗の嫡男。左京大夫。伊達氏の実力を背景に代々大崎氏が継承してきた奥州探題職を得た。天文の乱で父、稙宗と争い、家督相続後は本拠地を米沢城(米沢市)に移す(1548年)。有力家臣と妥協し、父の稙宗の政治路線を改め、知行判物を再交付した。伊具郡をめぐって相馬盛胤(顕胤の子)と抗争を続けた。一方で宿老中野宗時を重用し、宗時の専横を許した。次男の輝宗とも対立したが、1565年に輝宗に家督を譲り、杉ノ目城
(福島市)に移って隠居した。晴宗も父同様に多くの子ども達を政略結婚や養嗣子に利用し、勢力拡大を図った。晴宗の妻久保姫は岩城重隆の娘で、白河結城氏に嫁ぐところを晴宗が拉致して妻にしたという。晴宗との間に十一人の子女をもうけたという。

伊達輝宗(1544〜1585)[号:性山]

伊達家16代目。伊達晴宗の次男。左京大夫。父との対立を経て、1565年家督を継ぐ。相馬盛胤・義胤父子と抗争を続けた。父の寵臣で権勢を振るう中野宗時と対立。1570年中野宗時が小松城(川西町)で謀反し、これを討伐するが中野一族が相馬に逃れたため相馬氏との仲はさらに悪化した。中野に代えて、信用のおける遠藤基信を引き立て宿老として重用し、進物を贈り織田信長への接近も図った。妻、義姫(保春院)の実家最上氏の内紛では、義父の最上義守の要請を受けて1570年上山へ、1574年に最上領内に出兵。義兄、最上義光と戦う。だが相馬氏との抗争が激化していたため義光とは和睦し、撤兵した。対相馬戦では精強な相馬軍との正面衝突を避け、相馬軍が出陣して手薄になったところを衝き、勝利を重ね、1584年伊具郡を奪還し、相馬との講和に持ち込んだ。同年、嫡男の政宗に家督を譲り、隠居として政宗を後見する。1585年政宗の圧力に追い詰められた二本松城主畠山義継が御礼言上に訪れ、応対した際に畠山により拉致されてしまう。連れ去られる途中、阿武隈川河畔の高田原にて畠山義継共々、駆けつけた政宗の命を受けた伊達家鉄砲隊によって射殺された。享年42歳。資福寺(高畠町)に墓所がある。輝宗は名僧虎哉宗乙を資福寺の住持に招き、我が子政宗の教育を託していた。また片倉小十郎景綱の才を見抜き、小姓に取立て、我が子政宗の近侍に抜擢した。

伊達政宗(1567〜1636)[号:貞山]

伊達家17代目。伊達輝宗の嫡男。権中納言。幼少の頃、疱瘡を患い隻眼になったことから「独眼龍」と呼ばれる。幼名は梵天丸。名僧虎哉宗乙に教育され、片倉小十郎景綱らの補佐を受けた。1577年元服し、置賜を制圧して鎌倉公方の軍勢と互角に渡り合った伊達家中興の祖、9代伊達政宗にあやかって伊達藤次郎政宗と称す。三春城主田村清顕の娘、愛姫(陽徳院)を妻に娶る。1581年には対相馬戦で初陣を飾る。1584年には早々と父、輝宗から家督を譲られ、翌年、仙道攻略に乗り出す。伊達と芦名の間で去就の定まらない大内定綱を攻撃し、小手森城では撫斬りを強行。女子どもから家畜まで皆殺しにしたため、周辺では政宗を恐れた。大内は会津の芦名氏のもとに逃亡し、続いて二本松城の畠山義継が狙われた。畠山は御礼言上を装い、隠居の伊達輝宗を拉致したが、駆けつけた政宗は阿武隈川河畔の高田原で父の輝宗もろとも畠山義継を鉄砲隊で銃撃、射殺。父の仇として畠山の遺体をずたずたに切り刻み、遺体を藤蔓で縫い合わせて磔にし、晒し者にしたという。続いて二本松城を攻めるが堅固な上に大雪のため攻略に失敗。この状況を見て、北関東から奥州の南部に勢力を拡大した常陸太田城主「鬼義重」こと佐竹義重(1547〜1612)を中心に芦名氏、岩城氏、石川氏、結城氏、二階堂氏、相馬氏が連合し、三万の軍勢で政宗に攻めかかった。政宗は八千の兵を率い、人取橋の戦いで三万の連合軍と激突。鬼庭左月良直などの将が戦死するが寡兵でよく防ぐ。連合軍は佐竹義政(義重叔父)が暗殺され、安房の里見氏と水戸の江戸重通が背後から攻めかかったため撤退を余儀なくされた。翌1586年二本松城は開城し、伊達領となった。1587年伯父の山形城主最上義光が庄内を攻略し、さらに置賜に触手を伸ばして鮎貝城(白鷹町)の鮎貝宗信を政宗から離反させた。このため政宗は鮎貝氏を滅ぼし、伯父義光との対立が鮮明となる。1588年には政宗は叔父の留守政景に命じて中新田城(中新田町)の大崎義隆を攻めたが敗退。逆に最上義光の計略で最上、大崎、芦名、佐竹の有力大名による政宗包囲網が結成され窮地に追い込まれる。遂に伊達政宗と最上義光が中山口(上山市)で直接対決に至るが、政宗の母で義光の妹でもある義姫(保春院、お東の方)が籠で両軍対峙する中に乗り込み、説得の末に両軍を引き上げさせた。その頃、南では芦名氏が佐竹義重の次男義広を当主に迎え、再び佐竹・芦名連合軍が結成され、郡山城(郡山市)を襲った。しかし石川昭光(伊達輝宗の弟)らの調停で両軍は兵を退く。一方、庄内で最上義光は上杉景勝配下の本庄繁長軍に敗北し、勢力を後退させ、1589年政宗も大崎義隆を事実上降伏させて包囲網は崩れた。政宗は安子島城と高玉城を攻略し、会津芦名氏攻略の足掛かりをつくると反転して相馬領を攻め、妻の実家田村氏を攻める相馬氏、岩城氏をけん制する。さらに芦名氏一族で猪苗代城主の猪苗代盛国を寝返らせ、米沢城からは別働隊に桧原峠を越えさせ北から会津を攻め、政宗本人は猪苗代城に入った。須賀川まで出陣していた芦名義広は急遽黒川城(会津若松市)に戻り、磐梯山麓の摺上原で伊達軍と激突した。他家からの養子でまとまりの無い芦名軍は重臣が戦闘に参加せず敗北。芦名義広は黒川城を脱出し、実家の佐竹氏のもとに逃れた。会津の芦名氏を滅ぼすと立て続けに須賀川城の二階堂氏を滅ぼし、白河結城氏や石川氏、岩城氏も帰服させた。事実上政宗に降っている大崎氏や葛西氏の領土を合わせると宮城県全域、福島県ほぼ全域(相馬除く)、山形県南部、岩手県南部の南奥羽のほとんどを統一した。しかし既に豊臣秀吉が天下をほぼ手中に納めており、豊臣秀吉の惣無事令に違反して芦名氏を滅ぼしたことで伊達家は存亡の危機にあった。ここで政宗は毒を盛られ、これを政宗に代わって弟小次郎を当主に据えようと目論む者の仕業として弟小次郎を殺害。母、義姫は実家の最上義光のもとに去った。家中の不穏な勢力を抑えた政宗は漸く1590年小田原の北条氏政を攻めている秀吉の下に帰参した。この時、白装束で秀吉に面会し、遅参を詫びたところ秀吉から「もう少し来るのが遅ければこの首が危なかった」と首筋をたたかれたエピソードがある。政宗は会津と仙道南部を没収されたが、置賜郡及び伊達郡など仙道北部諸郡、宮城郡など宮城県南部の諸郡は安堵された。だが奥州仕置に際し、葛西・大崎一揆が勃発。政宗は鎮圧に活躍したが、1591年置賜郡及び仙道北部は没収され、葛西・大崎領を与えられた。裏で一揆を扇動したのが当の政宗だったからという。この時は公の花押の鶺鴒の目に針穴を開けておくことで、一揆扇動の密書は穴の無い偽物と申し開きして難を逃れた。こうして岩出山城(岩出山町)に居城を移す。秀吉政権下の政宗は「醍醐の花見」の出席武将(他は秀吉とその養子、徳川家康、前田利家のみ)に名を連ねていることから、破格の待遇を受けていたらしい。だが豊臣秀次が不行跡と謀反の疑いで切腹させられその一族も処刑されると、政宗にも謀反加担の疑いがかかり、石田三成らが詰問に訪れた際「秀吉公が秀次に関白を譲ったほどなのに片目の自分が人を見誤るのは当たり前、秀吉公が秀次に譲るというので秀次に奉公したまででそれを罪というなら自分の首を刎ねろ」と秀吉の痛いところを衝いて処刑を免れた。また秀吉には碁の勝負で勝ち側室「香の前」を譲り受けたという。秀吉が亡くなると徳川家康に接近し、長女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、上杉軍の甘粕景継が守る白石城を攻略し、本庄繁長が守る福島城にも攻めかかった。また上杉軍の直江兼続に攻められる山形城の最上義光に援軍を出したが、このとき片倉小十郎景綱が上杉軍と最上軍が争わせ疲弊したところを攻めよと献策したが、政宗は母(義姫)が山形に居るとしてこの策を拒否した。後に最上家が改易されたとき、政宗は母を自領の仙台に迎えている。政宗は家康から旧領の置賜郡及び伊達郡など仙道北部を与える約束をもらっていたが、南部氏の領地で和賀忠親に一揆を扇動させたため不興を買い約束を反故にされた。のちに3代将軍徳川家光の時代にこの約束を蒸し返したが、井伊直孝により、そのお墨付は「今の世にこれを出せば、かえって伊達家62万石をつぶすもと」として焼かれてしまった。一方、政宗は海外にも目をやり、キリスト教と接触した。1613年家臣支倉常長を月の浦からヨーロッパへ出航させた。しかし支倉常長が1620年に戻った頃にはキリスト教は弾圧の対象になっており、政宗もキリスト教弾圧に転じていた。1615年の大坂夏の陣では政宗は騎馬鉄砲隊を率い、大阪方の後藤又兵衛基次を討ち取る活躍を見せた。これと前後し1614年長男秀宗が伊予宇和島藩主に取立てられ、家督は次男の忠宗に譲ることになった。背景には秀宗が豊臣秀頼に近侍したことへの憚りがあったらしい。さらに1616年家康が没すると娘婿の松平上総介忠輝が改易される。大坂の陣で遅参したこと、キリスト教や外国貿易との関係が理由とされるが、政宗と通じて謀反を図ったという説も流れていた。当時、幕閣では本多正信・正純父子と大久保一族が対立しており、1613年には松平忠輝の内政に関与していた幕府の金山奉行大久保長安が亡くなった後、不正が発覚して長安の子が死罪、一族の大久保忠隣も改易となっていた。これを背景に政宗・忠輝・長安が陰謀をめぐらしたとされた。だが政宗は忠宗に秀忠の養女を娶らせ、家康からは秀忠を盛りたてるよう頼まれ、秀忠が亡くなる際には家光のことを頼まれている。実際に謀反を起こすことも無く徳川政権下の重鎮として活躍している。政宗は新領地で北上川など河川改修や治水に努め、新田開発も進めていたが、その結果、表高62万石に対して実高200万石とも言われるほど成長した。さらに貞山堀をつくり、石巻港整備を進め、水運も栄えた。こうして仙台藩の米は「仙台米」として江戸に運ばれ、江戸の米の三分の二を占めるまでに至った。1603年には仙台城(青葉城)に移り、東北の中心都市仙台の原型を創りあげた。1636年70歳で死去。

愛姫(1568〜1653)

田村清顕の娘。母は相馬氏。陽徳院。愛姫は「めごひめ」と読む。1579年伊達政宗に嫁ぐ。しかし敵対する相馬氏の影響を嫌う夫政宗によりお付きの侍女が斬られ、夫婦仲は危機に陥ったという。1590年秀吉の人質として京都に住まう。1594年五郎八姫(いろはひめ)を産み、1599年忠宗(第二代仙台藩主)を産む。政宗が亡くなる時、看病したいと強く願ったが許されなかった。このため自分が亡くなるときは夫政宗の命日まで頑張り、夫の命日に死去したという。また政宗は隻眼にコンプレックスを持ち、全ての肖像に両目を入れさせたが、愛姫は夫の正しい姿を残しなさいと言い、政宗の片目の木像を造らせたという。眉目秀麗であったという。

久保姫(1522〜1594)

岩城重隆の娘。栽松院。幼少から色白で美しくえくぼがあったので「笑窪御前」と呼ばれたという。白河結城家に嫁入りが決まっていたが、嫁入りの途中に伊達晴宗が久保姫一行を略奪して自分の妻にしてしまったという。晴宗との間に岩城親隆、伊達輝宗、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗、二階堂盛義室、伊達実元室、芦名盛隆室、小梁川盛宗室、佐竹義重室と六男五女をもうけ、奥羽諸大名にその血を伝えた。晩年は孫の伊達政宗の庇護下にあり宮城郡根白石で没した。

伊達小次郎(1568?〜1590)

伊達輝宗次男。幼名竺丸。政道と名乗ったらしい。政宗に比べ、母に愛されたという。芦名氏の養子候補となったが芦名氏は佐竹氏から義広を養子として迎えたため、伊達と芦名の仲は険悪になった。1590年政宗が毒を盛られた際、政宗によって斬られた。家中の小次郎擁立派が小田原参陣をめぐって窮地に陥った政宗に代えて小次郎を当主にせんと企んだからという。この一件で母義姫(保春院)は実家最上家に戻り、養育役の小原定綱は殉死した。

伊達実元(1527〜1587)

伊達稙宗の三男。兵部大輔。藤五郎。信夫郡大森城主(福島市)。越後守護上杉定実の養子になることが決まっていたが、兄晴宗は武力で入嗣を妨害し、父稙宗は西山城(桑折町)に幽閉され「天文の乱」が起こった。実元は父稙宗方の武将として信夫周辺で兄晴宗の軍と戦った。父が隠居し、乱が終結した後は兄晴宗に仕えた。1570年中野宗時が輝宗に謀反し、追討を受け、相馬に逃れたが、実元を通じて帰参を願った。しかし、輝宗は許さなかった。また畠山氏が八丁目城(福島市)を奪ったが、1574年畠山義継を攻め、奪回した。1576年対相馬戦の起請文に名を連ねる。1585年息子成実に家督を譲り、隠居して八丁目城に入る。同年、畠山義継の和睦願いを取次いだが、これが輝宗の非業の死につながる。1586年相馬義胤からの伊達・畠山の和睦要請を取次ぎ、二本松城を開城に導いた。この結果、二本松城(二本松市)は息子伊達成実が城主を勤めることになった。伊達家の紋「竹に雀」は実元入嗣の際に引出物として上杉家から贈られたという。

伊達成実(1568〜1646)

伊達実元の子。安房守。兵部。藤五郎。母は伊達晴宗の娘であり、伊達輝宗の従兄弟にして甥。伊達政宗より一つ年下で、幼い頃から側に仕えていたともいう。1585年家督を相続し、大森城主(福島市)。同年、伊達輝宗が畠山義継に拉致される事件が起こり、輝宗は義継もろとも伊達軍に銃撃され、非業の死を遂げたとされるが、一説では政宗は不在で銃撃を命じたのは成実だったともいう。続く人取橋の戦いでは佐竹を中心とする連合軍相手に勇戦し翌年二本松城(二本松市)が開城すると二本松城主となる。1588年郡山の戦いでも活躍。1589年摺上原の戦いでは第三陣を勤め、芦名軍に斬り込む活躍を見せた。1590年葛西・大崎一揆鎮圧の際は蒲生氏郷の疑念を解くため人質として名生城(古川市)に赴いた。1591年政宗の岩出山移封により角田城主(角田市)となる。ところが朝鮮出兵から一時帰国して、伏見にいた成実は1593年高野山に密かに脱出してしまう。自分の戦功が認められず他の将より位が下であったのが理由とされる。留守政景が説得したが聞き入れず、政宗の命により屋代景頼が角田城を攻撃し、成実の妻子や家臣は討取られた。しばらく浪人の身で、1600年関ヶ原の戦いを控え、上杉景勝が五万石で迎えようとしたが断った。同年7月関ヶ原の戦いの直前、片倉景綱、留守政景、石川昭光の説得により伊達家に帰参した。1602年亘理城主(亘理町)となる。1615年大坂の陣にも出陣した。1638年江戸で将軍家光に拝謁し、奥州の軍議を談じて家光は成実の勇略に嘆称したという。成実は『成実記』(『政宗記』『伊達日記』)を著し、政宗の一代記を後世に伝えている。成実は「英毅大略あり武勇無双」と評された武勇の士であり、片倉景綱、茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称せられた。またその兜には「決して後戻りしない」とあらわすため毛虫の前立がついていた。

亘理元宗(1530〜1594)

伊達稙宗の十二男。兵庫頭。元安斎。亘理城主(亘理町)。亘理氏に養子に行った兄綱宗が死去し、元宗が亘理氏に養子に入った。相馬氏の領地に接することから、常に対相馬戦で活躍した。1570年中野宗時らが謀反し、追討を受け、高畠・白石を突破して相馬に逃げようとするところを刈田郡宮(白石市)で迎撃している。このため置賜・伊具・名取の三郡で所領を加増された。1574年最上義光との戦いに出陣。和睦の使いを勤めた。1578年対相馬戦を一任され、相馬盛胤と伊具郡で戦う。1583年子の重宗も加わり、策をめぐらして金山城、丸森城(丸森町)を相馬から奪回した。1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の戦いにも参加した。1590年葛西・大崎一揆では佐沼城の戦いで政宗に代わって戦を指揮し、負傷している。翌年、伊達家移封に伴い、涌谷城(涌谷町)に移った。

留守政景(1549〜1607)

伊達晴宗の三男。上野介。留守氏の養子となる。留守氏は陸奥国留守職の家柄で高森(岩切)城(仙台市)を居城とし、伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、伊達家の傀儡であった。政景はは留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により1567年養子に迎えられた。1568年黒川晴氏の娘を妻に迎える。1569年政景の入嗣に反対する村岡氏を滅ぼした。その後利府城(利府町)に移った。1574年兄輝宗に従い最上義光を攻め、1577年対相馬戦のために小斎に出陣した。1585年人取橋の戦いで奮戦した。1588年大崎義隆攻めの総大将として中新田城(中新田町)などを攻めるが、大崎家とつながりのある舅黒川晴氏の裏切りもあり大敗した。しかし黒川の厚意で窮地を脱したこともあり、黒川の助命嘆願をしてこれを救っている。1591年伊達家移封に伴い黄海(藤沢町)に移住した。1592年朝鮮出兵に出陣し、帰還の途中で伊達姓を拝領する。1600年関ヶ原の戦いでは最上義光への援軍を率い、直江兼続率いる上杉軍と戦っている。1604年一関城(一関市)に移った。

国分盛重(1553〜1615)

伊達晴宗の五男。彦九郎。国分盛氏の養子となる。千代城主(仙台市)。盛重の国分氏入嗣には鬼庭良直の計略があった。置賜地方では下長井荘玉庭(川西町)、萩生城(飯豊町)などが国分氏の所領とされる。また最上義光に追われて千代に逃れた天童頼澄を迎えている。人取橋の戦いで活躍し、摺上原の戦い後は鮎貝城(白鷹町)を守備した。葛西・大崎一揆では米沢城留守居を努めた。蒲生氏郷の疑いを解くため、名生城に人質として赴いたこともある。しかし1599年病と称し、岩出山城(岩出山町)の政宗のもとに来なかったため、政宗は盛重を疑い、殺害を図ったので佐竹氏のもとに逃れ、佐竹家臣として横手城に住んだ。

大有康甫(1534〜1618)

伊達稙宗の十三男。一風軒。東昌寺(東正寺)十四世住職。6歳で出家し、伊達家の外交官として活躍。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を輝宗の嫡男梵天丸(後の政宗)の教育係に推挙した。1600年仙台北山に東昌寺を移した。南陽市赤湯にある東正寺はかつて東昌寺と称し、『赤湯温泉誌』では慈覚大師の草庵があった所に伊達家が押領した際、伊達家4代目の伊達政依(粟野蔵人)が跡地に精舎を建て、東昌寺と号したと伝える。ほかに1338年道叟道愛開山説と1383年長井氏を滅ぼし、9代伊達政宗が高畠城に入ってから元中年間に建立した説がある。仙台の東昌寺に伝わる説では1283年伊達政依が建立し、陸奥安国寺となり、1383年伊達氏の置賜郡攻略とともに夏刈(高畠町)に移り、大有康甫の時に仙台に移したとされる。しかし夏刈には以前から長井氏が開基した大寺院の資福寺があり、虎哉宗乙が資福寺住持になったことで赤湯の東昌寺と由来が混同した可能性もある。また『米沢地名選』によると東昌寺北山腹に「永仁二年(1294年)伊達式部少輔」の古碑があるとして、米沢に館を置く長井氏を滅ぼす以前から伊達氏は赤湯近辺を支配していたとも考えられる。赤湯に隣接する二色根に3代伊達義広の後胤という粟野氏が居城を置き、やはり伊達政依が建立したという観音寺(明治に廃寺)があったことと併せて考えると、東昌寺も長井氏滅亡以前から赤湯近辺を押領した伊達氏よって移されたか、最初から当地に建立された可能性がある。また伊達政依が建てた東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と呼ばれ、のち観音寺と興福寺は長井氏が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になったという。

小梁川宗朝(1469〜1565)

小梁川親朝の弟。京で兵法・剣術を修行し、鞍馬山中で暮らしていたが、将軍足利義晴に召しだされる。伊達稙宗も黄金を贈って扶持した。帰国して稙宗に近侍したが、1542年稙宗が嫡男晴宗により西山城に幽閉されると、変装して城に潜入し、稙宗を救出した。天文の乱では稙宗方として活躍し、稙宗が隠居して丸森城(丸森町)に移るとこれに従った。稙宗が亡くなると殉死した。息子宗秀は1570年天文の乱の元凶で伊達家の政治を牛耳った中野宗時が主君輝宗に背いたとき、先鋒として小松城(川西町)の中野宗時を攻め、宗時を相馬に追いやったが戦死した。

小梁川盛宗(1523〜1595)

小梁川親宗の子。泥蟠斎。高畠城主(高畠町)。小梁川氏は伊達家11代伊達持宗の三男盛宗に始まり、2代親朝は1514年伊達稙宗に従い、最上氏を長谷堂(山形市)に破り、長谷堂城を守備した。3代親宗は天文の乱で晴宗方について高畠城主となる。中野宗時と共に北条氏康への使いもしている。4代盛宗は1570年中野宗時らが伊達輝宗に背き、討伐を受け相馬に逃れた際、むざむざ高畠城下を通過させてしまったため輝宗に叱責された。1574年最上家での義守・義光の父子争いに際し、輝宗の命で最上家臣里見民部の守る上山城(上山市)を攻め、細谷で最上軍と戦った際は先鋒も務めた。1585年刈松田で大内定綱と戦う。後に出家して泥蟠斎を称す。政宗に近侍し、種々献策しており、勇武に秀でた謀臣だったという。

桑折貞長(?〜?)

播磨守。景長。桑折氏は伊達家3代伊達義広の長男親長に始まり、伊達郡桑折を領した。貞長(景長)は天文の乱において中野宗時と共に世子伊達晴宗に働きかけ、実元の上杉家入嗣を阻止させた。貞長は晴宗の参謀として活躍し、晴宗を奥州探題にするため奔走し、自身も守護代に任ぜられ、播磨守を名乗った。この奥州探題補任の返礼に鷹・馬・黄金三十両を贈っている。景長(貞長)は小松城主(川西町)で1577年小松城で没している。

桑折宗長(1532〜1601)

桑折貞長の子。点了斎。宗長は最初、出家して覚阿弥と称し、相模国藤沢遊行寺にいたが、本来の跡継ぎが早く亡くなったため還俗して貞長の跡を継いだ。1576年相馬氏との戦いに臨み、起請文を出し、1585年人取橋の戦いで活躍。1588年郡山の役では軍奉行。1589年摺上原の戦いでも子の政長と出陣した。政長は朝鮮出兵で病死したため、石母田景頼が桑折家を継いだ。宗長は伊達政宗の評定衆でしばしば談合に加わった。

虎哉宗乙(1530〜1611)

臨済宗の僧。美濃の福地氏の出で快川紹喜の門下として首座を勤めた。当初、伊達輝宗の叔父康甫が住職を勤める東昌寺に寓居していたが、1572年輝宗の要請で資福寺(高畠町)の住持となり、伊達政宗の師としても活躍する。した。1575年明人の翰林学士楊一龍が東昌寺に寄寓した際、宗乙と詩を唱和したという。また同年、京都妙心寺の住持にもなった。数々の寺の住持を歴任したが、1587年には非業の死を遂げた輝宗のため、政宗を開基として米沢の郊外遠山に覚範寺を開いた。1600年覚範寺を仙台に移転している。また松島瑞巌寺の再興を政宗に勧め、1604年から5年かけて再建させた。齢80にして歯が生えたともいう。

片倉景綱(1557〜1615)

米沢八幡神主片倉景重の子。母は本沢刑部の娘。小十郎。置賜郡では小桜城(長井市)、片倉館(長井市)、夏刈城(高畠町)などが片倉氏の城館とされる。景綱は遠藤基信に見出されて伊達輝宗の小姓に抜擢され、1575年輝宗の嫡男政宗の近侍となる。疱瘡で片目を失った政宗を補佐し、その知略で政宗の参謀として活躍した。1585年人取橋の戦いでは政宗を守り、奮戦した。1589年摺上原の戦いでは第二陣を受け持ち、戦見物をしている農民たちに発砲して逃げさせた。これを味方の敗走と勘違いした芦名軍は浮き足立ち、合戦に勝利したという。二本松城在番や大森城主(福島市)も務めている。豊臣秀吉からの小田原参陣要求に伊達家では臣従するか、一戦交えるか揉めたが、景綱は秀吉を蝿に例えて追い払ってもまた来ると言い、政宗に参陣を決意させた。1591年伊達家転封により亘理城主(亘理町)となる。朝鮮出兵でも軍船を賜り、活躍した。1600年関ヶ原の戦いに際しては西軍上杉景勝の白石城を攻め落とし、白石城主(白石市)となる。また上杉軍に攻められている最上義光から援軍要請を受けたときは主君政宗に「山形城は犠牲にして双方疲労の極みに達した時に上杉軍を完膚なきまでたたくべき」と献策したが、政宗の母、義姫が山形に居るのを知っていての冷酷な策だったため、さすがの政宗も怒って拒否した。伊達成実や茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と並び称せられたり、「武の成実、知の景綱」とも言われた。上杉家の直江兼続とともに二大陪臣として高く評価され、秀吉からも五万石の大名にすると誘われたが、自分は伊達家の家臣であると断った。1615年息子重長を自分の代わりに大坂の陣に出陣させた。

片倉重長(1585〜1659)

片倉景綱の子。小十郎。生まれた時、父景綱はまだ子が無い主君の政宗を慮って幼い重長を殺そうとしたという。重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川金吾秀秋に追い掛け回されたという。一方、勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。1600年白石城攻めに父とともに参加。1615年大坂夏の陣では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し、討ち取った。続いて真田幸村と対決した。重長の勇将ぶりを見込んだ幸村は娘阿梅を重長に託し、重長は阿梅を妻とした。こうして真田家の血は片倉家に受け継がれた。

喜多(1539?〜1610?)

鬼庭良直の娘。母は本沢刑部の娘。鬼庭綱元の異母姉。片倉景綱の異父姉。少納言。伊達政宗の乳母を勤めたという。

鬼庭良直(1513〜1585)

周防守。左月入道。鬼庭家は茂庭(福島市)と置賜郡永井(長井)荘の一部を領した。置賜郡永井荘川井(米沢市)に居館を構えた。伊達輝宗に重用され、評定役を務め、国分盛重の国分家入嗣のため画策した。1585年人取橋の戦いでは金色の采配を賜って総軍を指揮した。良直はしんがりとして奮戦し、200の首を挙げたが、老齢のため甲冑を着けず黄色の帽子をかぶって戦ったため、敵の目標となり岩城家臣窪田十郎に討ち取られた。しかしこの活躍で政宗は難を逃れることができた。

鬼庭綱元(1549〜1640)

鬼庭良直の長男。石見守。1575年家督を継ぎ、置賜郡永居郷川井城主(米沢市)となる。1585年人取橋の戦いで父良直を討った窪田十郎を捕らえたが、捕虜を斬るのは士道に恥じるとして仇を討たず釈放した。窪田十郎は感じ入って綱元の家臣となったという。1586年奉行に抜擢される。補給手腕に優れ、政宗の軍事行動を支え続けた。葛西・大崎一揆の件で政宗が一揆扇動の嫌疑を受けた際は上洛して弁明に努めた。1592年朝鮮出兵では肥前名護屋城で物資補給を任され、伊達軍に餓死者を出さなかった。豊臣秀吉に気に入られ、茂庭姓に改めさせられたり、側室香の前を与えられたりした。だが政宗の怒りを買って一時出奔したが、香の前を政宗に献上して許された。1600年上杉景勝を攻めた際は湯原城(七ヶ宿町)を攻略した。政宗の長男秀宗が宇和島藩主になった際は、宇和島に赴き初期の藩政を助けている。国老として数十年間活躍した。伊達家の内政・補給面を支え片倉景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と呼ばれた。

遠藤基信(1532〜1585)

役行者金伝坊の子。山城守。伊達家で権力を握っていた中野宗時に見出されて用いられた。しかし、宗時の謀反の企みを知り、新田景綱とともに輝宗に訴えた。中野宗時らは討伐されて相馬へ逃亡し、宗時に代わり基信が伊達家の政治を司ることになった。基信は宿老に任ぜられ、織田信長、徳川家康、北条氏照らとの外交交渉を進めたり、片倉景綱など優秀な人材を見出したりした。1585年自分を重く用いてくれた主君輝宗が畠山義継に拉致され、非業の死を遂げると輝宗に殉死した。その墓は輝宗の墓に並ぶように資福寺跡(高畠町)に残されている。

屋代景頼(1563〜1608)

勘解由兵衛。屋代氏は置賜郡屋代荘(高畠町)を本拠とし、景頼の祖父屋代閑盛の時代には伊達家国老となるほどであった。しかし父の代で罪があり所領は没収され、兄は鹿股源六郎を名乗って鹿股家に入ったため景頼が屋代家を継いだ。景頼は政宗に近侍し、旧領を回復。1591年国老に任ぜられた。葛西・大崎一揆鎮圧では一揆を起こした物頭衆をだまし討ちで皆殺しにした。1592年朝鮮出兵が始まると岩出山城の留守を預かり、国政を取り仕切った。1596年伊達成実が政宗の命に背き、高野山へ出奔すると成実の居城角田城(角田市)を攻め、成実の妻子や家臣を討ち取っている。1600年関ヶ原の戦いに際し、最上義光への援軍として直江兼続率いる上杉軍と戦い、福島城攻めの第二陣も務めた。しかし、驕った振る舞いが多いという理由で1607年所領を没収され、浪人する。翌年、近江で死去したという。裏の仕事を仰せつかることが多かった景頼だが政宗の弟小次郎の殺害を命じられた際は、さすがに再三辞したため、政宗自身の手で弟小次郎を殺したという。

原田宗時(1565〜1593)

左馬助。幼名虎駒。原田城主(川西町)。山嶺源一郎の子だが、1582年伯父原田大蔵宗政が戦死した跡を継いだ。1585年牢人平田を派遣して芦名の武将を内応させ、会津を攻めたが平田自身が敵方に走ったため敗北した。原田は後藤信康が自分を笑ったことを怒り、決闘を申し入れたが信康は二人が争って死ぬことは国の損失で、国のために戦って死ぬことが大切と説き、原田は己の未熟さを悟り、信康と親交するようになった。1585年刈松田に出陣し、大内定綱に備えた。続いて本宮に出陣し、佐竹・岩城連合軍に備えた。1588年郡山の戦いでは評定衆として活躍。また原田家は宿老の家柄で常日頃から政宗に近侍し、談合に参加した。1592年原田は朝鮮出兵への出陣で大太刀を背負い、金の鎖で結び、駿馬にまたがり現れ、伊達軍中でも一層目立ったという。しかし翌年釜山で病気になり、対馬まで帰るがそこで亡くなった。29歳の若さであった。なお原田宗時の孫、原田甲斐守宗輔は伊達騒動の中心的人物で、事件を起こした罪で原田家は断絶した。

後藤信康(1555〜1614)

湯目重弘次男。後藤信家養子。肥前守。孫兵衛。知勇兼備の将で黄色の母衣を背負って戦ったことから「黄後藤」と呼ばれた。1585年芦名氏攻略の別働隊として米沢から桧原峠を越え、桧原(北塩原村)を攻略し、桧原城を守備した。しかし退屈なので従者が逃げてしまいましたなどと政宗に言上している。原田宗時が内応させた芦名の武将と芦名の本拠地黒川城(会津若松市)を攻めて敗退した時、信康はこの話を聞き笑った。原田は怒って信康に決闘を申し入れたが、信康は碁を指しながら「お主の言うことはもっともで、決闘を受け入れても構わない。だが私的な理由でお主のような勇士が命を落とすのは国にとっての損失だ。むろん私もこんなことで命を失いたくはない。互いに国のために戦い死ぬことがほんとうではないか。」と語った。これで原田は自分が未熟であると恥じて信康と親交するようになった。二人は朝鮮出兵の出陣式で2.7mの大太刀を金の鎖で肩から下げ、派手な伊達軍の中でも一層目立った。原田が朝鮮出兵中に病で29歳の若さで亡くなると信康は原田の大太刀を譲り受け、家宝にしたという。葛西・大崎一揆では佐沼の戦いで敵将山上内膳を一騎打ちで倒し、宮崎城攻めでは夜襲をかけ落城させたが軍令違反で知行没収となった。またキリシタン武将の後藤寿庵を義弟としている。仙台城築城では普請総奉行を勤めた。大坂の陣では出陣を命ぜられなかったことに抗議するため、愛馬「五島」にまたがり、城の本丸から飛び降りて死んだとも伝えられる。

湯目景康(1564〜1638)

湯目重康の子。豊前守。幼名知喜力。湯目氏は大橋(南陽市)、長岡(南陽市)、筑茂(高畠町)、洲島(川西町)などに城館を構え、最上川、吉野川、和田川の合流する置賜盆地中央部に勢力を張っていたらしい。吉田東伍博士によれば赤湯の旧名が湯野目であるとしており、或いは赤湯由来の豪族かとも推測される。景康は人取橋の戦い、摺上原の戦い、葛西・大崎一揆鎮圧で活躍し、佐沼城(迫町)を与えられる。朝鮮出兵でも活躍。1595年豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられた事件で主君の政宗が謀反加担の疑いをかけられた際、津田原で秀吉に拝謁し、政宗に罪が無いことを訴えた。これ以降、津田と改姓したという。関ヶ原の戦いでは白石城攻略や最上への援軍の副将として活躍。大坂の陣でも活躍した。

粟野秀用(?〜1595)

木工頭。喜左衛門。二色根城主(南陽市)。伊達小次郎の傅役であったが、小次郎が兄政宗に斬られたため、伊達家を出奔し、関白豊臣秀次に仕えた。武功により取立てられ、伊予松前十五万石の大名にまでなるが、秀次事件に連座して1595年自害した。このつながりで政宗も秀次一味と見られ、秀吉への弁明に奔走することになった。粟野氏は南陽市川樋、岩部山などに居館を持ち、南陽市付近で勢力があったらしい。また、かつて二色根には伊達家4代目伊達政依(粟野蔵人)開基とされる観音寺があった。伊達家3代目伊達義広は「粟野次郎」を名乗っており、『米沢事跡考』によると粟野氏は伊達義広の後胤にあたるらしい。

鮎貝宗重(1555〜1624)

日傾斎。鮎貝城主(白鷹町)。家督を政宗に譲った輝宗を隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えている。子の鮎貝宗信と仲が悪く、1587年宗信は最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが、聞き入れられず、政宗に言上して鮎貝城を攻めさせ、宗信を最上に追いやった。その後、政宗の近侍として種々の談合に参加した。

鮎貝宗信(?〜?)

鮎貝宗重の子。藤太郎。忠旨。鮎貝城主(白鷹町)。父、鮎貝宗重と仲が悪く、1587年最上義光の謀略に乗り謀反する。宗重は宗信を説得したが宗信は聞き入れず、政宗に鮎貝城を攻められ、最上に落ち延びた。

新田景綱(?〜?)

遠江守。景綱の息子義直は中野宗時の孫娘を妻にしていたが、1570年中野宗時の謀反に加担し、それを知った父、景綱は遠藤基信らと主君輝宗に訴え、息子義直を館山城(米沢市)に滅ぼし、中野宗時らの追討軍を率いて小松城(川西町)を攻め落とした。別の息子義綱は1585年後藤信康とともに桧原城(北塩原村)に在番した。

中野宗時(?〜?)

常陸介。伊達稙宗に仕え『塵芥集』制定の際、家老評定人として連署している。1542年稙宗の子実元が上杉定実の養子に入るとき、稙宗の嫡男晴宗を説いてこれを実力で阻止させ、稙宗を西山城に幽閉させた。こうして天文の乱が始まると晴宗の参謀として活躍し、天文の乱を晴宗の勝利に導く。家督を継いだ晴宗から重用され、多大な所領得た。次男久仲には宿老牧野家を相続させ、伊達家中随一の権勢を振るった。1555年晴宗の左京大夫任官と輝宗の将軍の一字拝領に奔走し、子の牧野久仲を守護代にした。また北条氏康への使者も務めている。だが、1565年輝宗が家督を継ぐと宗時を抑えようとする輝宗と対立し、1570年息子牧野久仲や新田義直らと謀反を計画した。だが、宗時に仕えていた遠藤基信や義直の父新田景綱らが輝宗に訴えたため輝宗に追討される。新田景綱、小梁川宗秀らの追討軍に小松城(川西町)を攻められ、落城。高畠、白石を抜け相馬へ逃れた。先代の晴宗や実元を通じて輝宗に帰参の許しを請うたが許されず、相馬から会津に流浪したが、飢えと寒さで死去したという。息子久仲も孫美濃も許されず、その次の盛仲に至って伊達政宗に召しだされた。

牧野久仲(?〜?)

中野宗時の子。弾正忠。宗仲。天文の乱の最中、伊達家累代の宿老、牧野宗興とその子景仲が相次いで没し、久仲が牧野家に入った。天文の乱後、父中野宗時とともに権勢を握り、伊達晴宗の奥州探題任官に奔走。桑折貞長とともに守護代となる。だが1570年父とともに小松城(川西町)で伊達輝宗に謀反し、輝宗の討伐を受けて相馬に逃れた。のち帰参を乞うが許されなかった。孫の盛仲に至って許され、伊達政宗に召しだされた。

上郡山景為(?〜?)

右近丞。小国城主(小国町)。伊達家移封により、玉造郡宮沢城に移った。

錦織即休斎(?〜?)

伊達政宗の側近。二本松城攻略中の政宗より書を送られる。度々茶・料理の席に相伴している。佐竹義重との和睦では検使役を勤め、談合にも参加。政宗の母義姫が政宗を毒殺しようと毒を盛った際、政宗に薬を調進して政宗の命を救った。(『貞山公治家記録』を参照)

白石宗実(1553〜1599)

白石宗利の子。若狭守。白石城主(白石市)。祖父実綱は天文の乱で西山城を追われた伊達晴宗を白石城に迎え、晴宗方として活躍。父宗利は1570年中野宗時が輝宗の追討を受けて相馬に逃れる途中、むざむざ白石を通過させたことで輝宗の怒りを買ったが、同様に見逃した高畠城主小梁川盛宗とともに許されている。宗実は伊達政宗に従い1576年相馬攻めに際して起請文を出し、1584年相馬の駒ヶ嶺城攻めの殿(しんがり)を勤めた。1585年大内定綱と戦い、敵の小浜城の内応を画策。1586年相馬義胤からの伊達・畠山和睦要請を政宗に取り次いでいる。これらの功で塩松城主となる。1588年郡山の役では軍評定に加わり、1589年摺上原の戦いでは第四陣を勤めた。政宗の移封に伴って水沢城主(水沢市)となり、1593年には朝鮮出兵に出陣した。しかし、1599年伏見で47歳で死去したため、梁川宗清(伊達稙宗の子)の子宗直が跡を継いだ。

鈴木元信(1555〜1620)

岩出山市正の子とも、会津黒川の穂積氏の出ともいう。伝えられる名前も秀信、高信、重信と多い。和泉守。商人の出で、京で茶を学び、茶道の師として政宗に召抱えられた。行政・経営に優れたため重用された。政宗の移封に伴い、古川城主(古川市)となる。伊達政宗が天下を取った時のために「式目」「憲法」草案を作ったが、幕府が安定したため、臨終の際に幕府の疑惑を招くからとして焼却したという。

支倉常長(1571〜1622)

山口常成の子。支倉忠正の養子。与市。六右衛門。支倉氏は柴田郡支倉(川崎町)を領有した。政宗の命により、宣教師ソテロとともに月ノ浦(石巻市)から出航し、メキシコ、スペイン、ローマを訪れる。スペインでは洗礼を受け、ローマではローマ教皇に謁見した。だが目的の通商締結は不成功に終わり、マニラを経由して1620年日本に帰った。しかし帰国した頃は既にキリシタン弾圧に乗り出しており、常長が活躍することは無かった。

泉田重光(1529〜1596)

泉田景時の次男。安芸守。泉田景時は伊達晴宗の代から家臣になった。1582年重光の兄光時が対相馬戦で戦死したため、重光が跡を継いだ。重光は岩沼城主(岩沼市)となり、政宗のもとで二本松城攻略などに活躍。1588年大崎義隆の中新田城(中新田町)を攻めた際は大敗し、重光が最上氏の人質になることで撤退できた。和議の後、伊達家に戻り、朝鮮出兵にも従軍した。

小山田頼定(?〜1588)

筑前守。柴田郡小山田の領主。1588年留守政景に従い、軍奉行として大崎義隆の中新田城を攻めるが、敵将南条隆信の抵抗で苦戦。退却中に敵兵に討たれた。勇将であったという。

山岡重長(1544〜1626)

志摩守。柴田郡小成田の領主で輝宗の頃から伊達家に仕えた。1588年大崎義隆攻めでは軍目付。1590年葛西・大崎一揆鎮圧に功があった。朝鮮出兵では敵の女武者を生け捕り、妻にして帰った。大坂の夏の陣でも功を挙げた。

蒲生時代(1591〜1598)

蒲生氏郷(1556〜1595)

近江日野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代。六角氏を滅ぼし、南近江に進出した織田信長の人質となるが、信長に気に入られ、信長の娘冬姫を娶わせられる。浅井・朝倉攻め、長島一向一揆、長篠の戦、伊賀攻めなど多くの合戦で活躍。信長没後は秀吉に従い滝川一益攻め、小牧・長久手の戦いで活躍し、伊勢国で十二万石を領し、松ヶ島城主となる。その後も九州征伐や小田原征伐に従軍し、奥州仕置の後、伊達政宗の旧領会津と仙道及び置賜に移封され九十二万石の太守となった。だが本人は喜ばず「小身でも畿内にいれば天下取りの機会もやってくるが奥州の田舎ではそれもかなわない」と嘆いた。秀吉とすれば伊達政宗、上杉景勝、最上義光、そして徳川家康らの有力大名の狭間でにらみを効かせられるのは氏郷だけと見込んだのだが、同時に信長の婿で大望もある蒲生氏郷を畿内に置くのは危険と判断した節もある。政宗が送った刺客を捕らえた際、かえって忠誠をほめたという。また次の天下人を聞かれて「前田利家か自分である。家康には知行を惜しみなく分配する器量が無いから天下人にはなれない。」と答えた。氏郷の美学ではこのような評価になのかもしれない。居城の黒川城を(会津)若松城、米沢城を松岬城と称したが、かつて領有した伊勢や近江の地名にならったという。40歳の若さで死去。茶人千利休の高弟でもあり、洗礼名レオンを名乗るキリシタン大名でもあった。氏郷の治世によって近江商人、伊勢商人が山形に進出するようになり、置賜地方では切支丹が増えたらしい。また南陽市には蒲生飛騨守氏郷に由来するという蒲生田の地名が残る。

蒲生秀行(1583〜1612)

幼名鶴千代。1595年父、氏郷の死で13歳で跡を継ぐ。1598年に家臣同士の争いが起き、蒲生郷安が亘理八右衛門を討ち果たした。この御家騒動で秀行は会津九十二万石を没収され、宇都宮十八万石に移された。蒲生氏の置賜支配はこうして8年で終わった。秀行はその後、関ヶ原の戦いの功で会津六十万石(※置賜は領しない)に復帰した。また1626年には秀行の次男の蒲生忠知が上山藩主となったが、僅か一年で兄の会津藩主蒲生忠郷が急死したため、本家を相続して伊予松山に移封された。

蒲生郷安(?〜1600)

元六角家臣赤坂隼人。蒲生氏郷に使え、改名。氏郷の会津移封後、米沢城主に抜擢され三万八千石。筆頭仕置奉行として活躍したが、秀行の代になり、秀行の寵臣亘理八右衛門を斬った。蒲生家は転封となり、郷安は小西行長に預けられた。関ヶ原の戦いでは小西行長の将として肥後で戦い、加藤清正に捕らえられ自刃した。

蒲生郷可(?〜?)

旧名上坂左門。九州征伐で先鋒として巌石城を攻撃。左一番隊の戦奉行。氏郷の会津移封後、最上との国境にある中山城(上山市)で一万三千石を領した。郷可は郷安と仲が悪く、1592年宮内城(南陽市)を修築し、米沢城の郷安を攻めようとしたが諸将の仲介で和解したという。

佐久間安次(1555〜1627)

安政。久右衛門。久六郎。父、佐久間盛次は織田信長の重臣佐久間信盛の兄。兄の佐久間盛政は「鬼玄蕃」と呼ばれ、柴田勝家に仕えた猛将。もう一人の兄、柴田勝政も柴田勝家に仕えて柴田姓を与えられた。安次も柴田勝家に仕えた。安次は保田知宗の養子となり、一時保田姓を称する。柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗北した後、織田信雄、北条氏政に仕えて秀吉に抵抗し続けた。小田原落城後は蒲生氏郷に仕え、会津転封の際に小国城主(小国町)となり一万石を領した。置賜地方は蒲生郷安、蒲生郷可、佐久間盛次の三人で統治された。弟の佐久間安之(勝之)も蒲生氏郷に仕えた。1600年関ヶ原の戦いでは弟とともに徳川家康に従い、1615年信濃飯山二万石を領した。小国城主の名前については佐久間久右衛門とも佐久間久左衛門とも書かれ、安次とも盛次とも伝わり、はっきりしない部分もある。

上杉時代(1598〜)

上杉景勝(1555〜1623)

坂戸城(新潟県六日町)城主、長尾政景(上田長尾氏)の次男。上杉謙信の養子。母は謙信の姉、仙桃院。1559年5歳で叔父上杉謙信の養子となり元服し、喜平次顕景を名乗る。1564年実父長尾政景が宇佐美定満と舟遊中に事故で溺死。1575年上杉弾正少弼景勝と改名した。景勝は「御中城様」と呼ばれ、謙信の軍役に従う武将でもあった。1578年養父謙信が亡くなると同じく謙信の養子で実姉の夫、上杉三郎景虎(北条氏康の子)と謙信の跡目を争う(御館の乱)。景勝は謙信の遺言で相続したとして春日山城の本丸(実城)を抑えた。一方、景虎は前の関東管領上杉憲政の住む御館に入る。当初、実家北条氏の威を借りた景虎が優勢であったが、景勝は劣勢挽回のため、武田勝頼の家臣に賄賂を握らせ勝頼と和睦し、武田信玄の娘で勝頼の妹、菊姫を妻に迎えた。この結果、次第に形勢は逆転し、景虎側は関東からの援軍北条氏照、氏邦が雪のため撤退。北条景広は景勝勢に討たれた。上杉景信は景勝方の山浦国清(村上義清の子)に討ち取られた。御館の上杉憲政は景虎の子道満丸を連れて和解のため景勝のもとに赴くが二人とも斬殺された。景虎は妻とともに鮫ヶ尾城に逃れるが、城主堀江宗親の裏切りで追い詰められ自害した。こうして景勝は越後を統一したが、論功行賞のもつれで直江信綱が斬殺され、安田顕元は自害、新発田重家に至っては織田信長に通じて1581年反乱を起こした。景勝は重要拠点の新潟(新潟市)をめぐって新発田軍と攻防を繰り返し、1583年ようやく新潟を制圧。1586年信濃川対岸の沼垂を制圧した。港町新潟と沼垂の町人は武装商人で彼らが味方についたことが景勝にとっては大きかった。補給路を失った新発田城は1587年落城し、新発田重家は自害した。この間、1582年織田軍により越中魚津城が落とされ窮地に陥るが、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、越後の危機は去る。代わって信長の後継者となった羽柴秀吉に誼を通じた。1589年佐渡を平定した。翌年小田原攻めに参加し、松井田城、鉢形城、八王子城を攻略。朝鮮出兵にも参加。1596年には五大老に列せられた。1598年蒲生氏が移された後の会津に転封となる。会津、仙道、置賜、庄内、佐渡といった広範囲を領有し、百二十万石を数えた。景勝は新領地、会津で道路の整備、神指城築城などに取り組んだが、豊臣秀吉が没し、五大老筆頭の徳川家康が実権を握ると景勝の動きを謀反を企むものと決めつけた。これに対して景勝は徳川家康との対決姿勢を鮮明にし、家康から上杉征伐を受ける。だが家康の真の狙いは石田三成を挙兵させて反徳川勢力をまとめて潰すことにあったようで、上杉を攻めずに挙兵した石田三成率いる西軍と戦うために関ヶ原へ向かった。上杉軍は伊達や最上など東軍諸将に釘付けにされ、東北もまた戦の舞台となった。特に直江兼続率いる上杉軍が最上義光を攻撃して長谷堂城を包囲し、山形城に迫る勢いだったが西軍の敗報を受けて撤退した。一方、白石城は伊達政宗に攻略され、福島城まで攻め込まれた。戦後、米沢三十万石に移された。大坂の陣では鴫野口を守り、功を挙げた。この時、家康からねぎらわれたたが、景勝は「子どものケンカみたいなもので骨を折ることもありません」と答えた。景勝は家臣からも恐れられた。富士川の渡しで家臣が乗りすぎ船が沈みそうになったとき、景勝が無言で杖を振り上げると家臣は皆一斉に川に飛び込んだという。景勝の行列も共の者の誰も喋る者、咳をする者が無く、足音しか聞こえなかった。また景勝は笑顔を見せない男だった。あるとき飼っていた猿が景勝のマネをして、景勝の帽子をかぶり、腕を組んで家臣に指示する如く頷いていた。これを見て景勝は笑顔を見せたのだが、これが家臣に見せた生涯ただ一度の笑顔だった。

菊姫(1558〜1604)

武田信玄の娘。上杉景勝の妻。大儀院。『本朝二十四孝』の八重垣姫のモデルともいう。1578年御館の乱が勃発し上杉景勝は謙信のもう一人の養子で実家小田原北条家がバックについている上杉景虎を相手に苦戦を強いられた。この状況を打破するため、景勝は武田勝頼の家臣に賄賂を贈り、武田家との同盟を成功させ、勝頼の妹菊姫を妻に迎えた。菊姫は賢夫人であったそうで倹約にもよく努め、弟武田信清も上杉家に迎えた。1595年秀吉の人質として京都伏見に住まうようになった。1604年京都上杉邸で亡くなり、米沢林泉寺に葬られた。

武田信清(1563〜1642)

武田信玄の六男もしくは七男。景勝の妻菊姫の弟。大膳大夫。三郎。幼名大勝。当初僧となり玄龍と称したが、兄武田勝頼の命で還俗し、安田三郎信清を名乗る。1582年兄武田勝頼が織田軍に攻められ、天目山で自刃すると僧姿で高野山に逃れ、のちに義兄上杉景勝を頼って越後に赴き、その家臣として武田大膳大夫信清を名乗った。上杉家親族として高家衆筆頭に列せられ、代々米沢藩に仕えた。1642年80歳で死去し、林泉寺に葬られた。

仙桃院(1523?〜1609)

長尾為景の娘。上杉謙信の姉。綾姫。坂戸城主(六日町)上田長尾氏の長尾越前守政景に嫁ぎ、二男二女を産む。長男義景は早くに亡くなり、1564年夫長尾政景も溺死する。次男顕景(後の上杉景勝)を弟上杉謙信の養子にし、二人の娘をそれぞれ謙信の養子上杉景虎(北条氏出身)と上条政繁(畠山氏出身)に嫁がせ、謙信一門を固めた。聡明な女性で上杉家を陰で支えていた人物であり、樋口与六(直江兼続)の才を見出し、わが子景勝の近習として取り立てたという。1578年謙信の死で景勝と景虎の家督相続争いが始まり、御館の乱が勃発。戦いは景勝が勝利し景虎とその妻(仙桃院の娘)は自害した。その後は景勝を支え続け、1609年米沢で亡くなった。

直江兼続(1560〜1619)

樋口兼豊の長男。山城守。幼名与六。後に名を重光と改める。坂戸城(新潟県六日町)に生まれる。坂戸城主長尾政景の次男で上杉謙信の養子、上杉景勝の近習となり、名将上杉謙信の感化を受けて育ったという。御館の乱の後論功行賞を巡って上杉家重臣直江信綱が毛利秀広に斬殺される事件が発生。景勝の命により信綱の寡婦お船と結婚して直江家を継承し、与板城主(新潟県与板町)となる。兼続は景勝の参謀として活躍し、豊臣秀吉の懐刀、石田三成との交流を深める。秀吉からも「天下の仕置を任せられる男」と高い評価を受け、豊臣姓を与えられた。景勝が秀吉の命によって会津百二十万石に転封されたときには、米沢城主となり四分の一の三十万石を領したという。秀吉没後、徳川家康が景勝の築城や道路整備を謀反ではないかと詰問した際、いわゆる「直江状」を家康に送って一つ一つに反論し、家康に挑戦したとされる。一説には関ヶ原の戦いは兼続が石田三成と共謀して起こしたものとするものもある。こうして関ヶ原の戦いでは西軍に属し、兼続は上杉軍を率いて山形の最上義光を攻めた。白鷹山を越えて畑谷城(山辺町)を落とし、城主の江口五兵衛光清を討ち取った。続けて志村伊豆守光安の拠る長谷堂城(山形市)を包囲攻撃したが、志村はよく粘り、逆に上杉方の上泉泰綱が戦死した。長谷堂城包囲中に西軍の敗報が届き、撤退を余儀なくされた。戦後、上杉家の所領は米沢三十万石に減らされた。兼続は米沢領の開発に努める一方、徳川家康の参謀、本多正信の次男政重を養子に迎え、徳川との関係改善に努めた。大坂の陣でも活躍した。兼続は民政家として優れており、米沢に入部してすぐの慶長年間には腹心の春日元忠を高畠城代に据え、赤湯白龍湖周辺の湿地帯(大谷地)開拓を推進している。米沢市内を流れる最上川には「直江石堤」と呼ばれる堤防を築き洪水を防いだ。領内の主要街道には一里塚を置き、整備している。米沢の城下町整備にも力を入れ、下級武士達を南原など米沢周辺の原野に配し、守備に開発に役立てた。軍備も怠り無く、白布温泉に鉄砲鋳造工場を建設した。この鉄砲は大坂の陣で大いに活躍したという。兼続の逸話に次のようなものがある。「上杉家中の者(三宝寺勝蔵とも横田式部ともいわれる)が些細なことで下人を殺害したため、下人の親類が怒って下人を返せと騒いだ。兼続は銀二十枚を出して弔うように宥めたが、親類は返せの一点張りで埒があかないため『ならばお前達が直接行って閻魔大王に頼んで来い』と親類を殺して閻魔大王宛ての高札を立てた。」兼続の為政者としての優秀さと厳しさをあらわす話として伝えられている。兼続はプライドも高く、伊達政宗が懐から黄金の大判を取り出して己の財力を諸大名にひけらかしていたところ、自分に回ってきた大判を扇で受けて羽根つきのようにひっくり返して眺めた。政宗が手にとって見ても差し支えないと言うと兼続は「自分の手は謙信公の時代から采配を取ったもので、こんないやしい金銭は手に取るのも穢らわしいので扇に乗せて見ているのだ」と言い、大判を政宗に投げ返したという話も残されている。兼続はたいへんな学問好きであり、城を落とせばまず書庫を探して書物を集めたと言われるほどであった。特に朝鮮出兵では宋版『史記』『漢書』『後漢書』といった貴重な史書を得ている。自らも直江版文選といわれる『五臣註 文選』を著している(『文選』は中国の南北朝時代に梁の昭明太子が編纂したもの)。また学問所「禅林文庫」を設立し、のちに藩校興譲館につながる米沢藩の学問の基礎をつくったとされる。

お船(1559〜1637)

直江実綱(景綱)の娘。直江兼続の妻。直江家には男子が無かったため、当初惣社長尾家の信綱を婿に迎えたが、1581年御館の乱の論功行賞に不満の毛利秀広が直江信綱と山崎秀仙を春日山城内で斬殺した。このため景勝の側近で信任の厚い樋口与六兼続を婿に迎え、上杉家重臣直江家を存続させた。兼続を内助の功で支えた。主君景勝の子定勝(第二代米沢藩主)を養育し、定勝もお船になついた。1615年兼続との嫡子直江平八景明が22歳の若さで病没し、娘婿で養子の直江勝吉(本多政重)も妻が亡くなったため上杉家を去り、加賀前田家臣となった。このため、直江家は断絶が決まった。1637年江戸鱗屋敷で81歳で亡くなり、米沢林泉寺に葬られた。

直江勝吉(本多政重)(1580〜1647)

直江兼続の養子。本多正信の次男。1597年徳川秀忠の乳母の子を斬って徳川家を出奔。大谷吉継家臣を経て宇喜多秀家の家臣となる。1600年関ヶ原の戦いでは同僚明石全登とともに宇喜多軍を率いて東軍を相手に奮戦した。戦後近江堅田に隠棲したが、前田利長や小早川秀秋から仕官の誘いがあり、一度はこれらを断り高野山に入った。その後福島正則、前田利長に仕えたが旧主宇喜多秀家配流を知り、同行を願うも叶わなかった。1604年上杉景勝に仕え、直江兼続の娘を娶り直江勝吉を称した。しかし、1611年妻が亡くなり前田家に戻る。前田家では幕府との交渉役として活躍し、前田家家老としては最高の五万石を得た。1614年大坂の陣にも出陣し、真田丸に拠る名将真田幸村と戦ったが敗北した。上杉家を去った後も直江兼続を義父として敬ったという。

樋口兼豊(?〜1602)

直江兼続、大国実頼の父。伊予守。長尾政景家臣であったが1564年長尾政景溺死の後、上杉謙信に仕えた。1578年謙信の死で養子景勝と景虎が争う御館の乱が勃発。兼豊は景勝の配下として活躍し、直峰城主(安塚町)となる。主家の会津移封、米沢移封に従う。樋口家は三男秀兼が継いだ。

大国実頼(1562〜1622)

直江兼続の弟。1582年小国重頼の養子となり、後に命により大国姓に改めた。1586年新発田重家討伐に従軍した。聚楽第完成の際は豊臣秀吉への賀使を務めた。1598年上杉家会津移封の際は南山城代(田島町)となる。関ヶ原の戦い後は1602年亀岡文殊での歌会で出題者を務める。しかし兄直江兼続と仲違いして高野山に出奔。兼続が没した後、上杉家に戻り、高畠城代(高畠町)となった。

前田利大(1542〜1612)

前田利久の養子。前田利家の甥。実父は滝川一益とも益氏とも。利益。利治。慶次郎。叔父前田利家に仕えていたが傾き者で奇行で有名だった。数々のエピソードがあるが、叔父で主君の前田利家を悪戯で水風呂に入れて前田家を出奔したという。その後上杉景勝の家臣となり、穀蔵院ひょっと斎と称したという。「大ふへんもの」と旗指物に書いて皆が「大武辺者」とは何事かと怒ったのを「大不便者」じゃとケムに巻いた話とか、勝手に朱槍を用いて他の武将が怒り、他の武将にも朱槍を許すことになったとか、林泉寺の和尚を碁の罰ゲームにかこつけて殴った話とか多数の話が残る。1600年直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。しかし最上方の長谷堂城はなかなか落ちず、関ヶ原で西軍が敗れた知らせを受け、撤退する。最上義光はこれを追撃したが、利大はこの退却戦で奮戦し、撤退を成功させた。続いて伊達政宗が福島城を攻めた際は伊達軍に一騎打ちを求め、槍で相手の頭をたたいて気絶させ相手に小便をかけ、自陣へ帰った。戦後は米沢郊外の堂森にある庵に隠居したが、ここでも「兜をむくる」と村人を集めておいて、ただ兜を後ろ向きにするという奇行をやっている。1602年には亀岡文殊で直江兼続が開いた歌会に安田能元、春日元忠、岩井信能、大国実頼らと参加している。利大はただの変人ではなく、当時の風俗がわかる『前田慶次道中日記』も書き残している。

上泉泰綱(1552〜1600)

新陰流の祖、剣聖上泉伊勢守信綱の孫(次男ともいう)。主水正。憲元。浪人していたが前田利大らとともに上杉景勝に仕えるようになった。1600年関ヶ原の戦いが起こると上杉軍も最上義光を攻め、上泉も直江兼続に従い最上を攻める。しかし長谷堂城はなかなか落とせず、上泉は敵に突撃を仕掛け、援軍の伊達勢と壮絶な戦いを演じるがついに上泉は討死した。

車斯忠(?〜1602)

佐竹家臣。丹波守。1571年佐竹家重臣和田昭為を讒言により白河結城氏のもとに追いやり、佐竹義重の側近として活躍。1593年朝鮮出兵では肥前名護屋城に赴いた。関ヶ原の戦いの前に上杉景勝に仕え、1600年関ヶ原の戦いでは福島城、梁川城に在番。これは中立の立場をとる佐竹氏が上杉家に助力するため、車を送り込んだものともいう。戦後、常陸に戻るが、1602年佐竹氏の秋田移封に反対し、水戸城奪回を企てたが捕らえられて殺された。その一族は将軍家に仕え、代々車善七を称して非人頭を勤めたという。

水原親憲(1546〜1616)

大関親信の子。常陸介。弥七。越中の出身で上杉謙信に仕える。1561年川中島の合戦で活躍した。1582年水原満家が新発田重家の謀反軍との戦いで戦死したため、水原氏を継ぎ、水原城主(水原町)となる。1598年上杉家の会津転封に従い猪苗代城代(猪苗代町)となる。1600年徳川家康の会津征伐の際、石田三成が上方で挙兵したという報を受け、家康が上方に向ったが、それをほかの家臣が喜ぶ中、家康が戻れば三成は敗れ、上杉は孤立してしまうと冷静に見ていた。続いて直江兼続に従い、最上義光攻めに参加。長谷堂城を攻めるがなかなか城を攻め落とせず、清水義親と楯岡光直の最上軍が救援にやってきたが、水原は鉄砲隊を率いて須川で待ち伏せて最上軍を撃破した。予想通り関ヶ原で西軍が敗北した知らせを受け、撤退に転じる。最上義光はここぞと追撃を仕掛けるが富神山まできたところで伏兵となっていた水原の鉄砲隊が最上義光を攻撃した。義光は水原の退路を絶とうとしたが、そこへ直江兼続、前田利大らが最上軍に攻めかかり食い止めた。結局、最上義光は追撃を断念。撤退に成功した。1614年大坂冬の陣にも出陣し、鴫野の戦いでは大野治長ら豊臣軍一万二千に五千の上杉軍が攻撃された。第一陣須田長義が押されて後退したところ、第二陣の水原は鉄砲隊で豊臣勢を攻撃。そこへ横から安田能元が攻めかかり、豊臣勢を撃退した。この働きに対して徳川秀忠は水原に感状を与えたが水原は「こんな戦は子供の石合戦のようなもの。昔は今日死ぬか明日死ぬかという戦いでも感状などもらえなかった。こんな花見みたいな戦で感状がもらえるとは笑い話じゃ」と言ったという。1601年大石綱元が亡くなった後、会津三奉行の一人になったという。また将軍家が手紙に「水原」と書くところを「杉原」と書いたため、杉原に改姓したともいう。

色部光長(?〜1620)

色部長実の子。長門守。与三郎。平林城主(神林村)。1592年父色部長実が亡くなり、幼少ながら跡を継ぐ。直江兼続の妹を妻にした。朝鮮出兵に参加。上杉景勝の会津転封に従い、金山城主(南陽市)となる。1600年関ヶ原の戦いでは兼続率いる最上義光攻めの先鋒となり、江口五兵衛光清が守る畑谷城(山辺町)を落した。続いて長谷堂城(山形市)の志村伊豆守光安を攻めるが城を落とせぬまま、関ヶ原で西軍が敗退。逆に最上義光の追撃を受け、これを防いで撤退に成功した。上杉家が米沢三十万石に減封された後は窪田(米沢市)を知行とし、千眼寺を建立した。千眼寺の保呂羽堂では毎年十二月に裸餅つきが行われる。大坂の陣にも出陣している。色部家は江戸時代を通して上杉家重臣として活躍している。。

春日元忠(?〜1608)

信濃更級郡の出身。旧武田家臣。1582年の武田家滅亡で、上杉景勝に仕える。専ら直江兼続のもとで活躍し、兼続の絶大な信頼を受け「直江被官の棟梁」と呼ばれた。1584年信濃青柳城主。1591年庄内で起きた一揆を鎮圧した。この件で所領没収となった本庄繁長の居城本庄城(後の村上城)(村上市)に入る。1598年主家の会津転封に際し、高畠城代(高畠町)となる。高畠では白龍湖周辺の湿地帯大谷地の開拓を進めた。1600年には直江兼続について最上義光攻撃に参加し、長谷堂城包囲を行っている。関ヶ原での西軍の敗報を受け、最上義光に追撃されたが撤退に成功した。主家の米沢転封後も高畠城代を務め、1602年には直江兼続主催の亀岡文殊での歌会に前田慶次、安田能元、岩井信能、大国実頼らとともに参加している。1603年からは米沢奉行も務めた。

横田旨俊(?〜?)

式部少輔。葦名旧臣。葦名家没落後、越後に移って直江の配下となった。主家の会津転封後、対最上義光の最前線、中山城主(上山市)となる。1600年最上義光を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛らと里見民部が守る上山城(上山市)を攻めるが、敵の援軍草刈志摩守も到着し、物見山の戦いで敗北。この戦いで本村親盛が討死した。また横田氏は赤湯に開田し、後に横田家中の者十九家が赤湯北町に移り住み、今もその子孫が残る。

篠井泰信(?〜?)

1600年最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、本村親盛らとともに上山城(上山市)を攻めるが、里見民部、草刈志摩守率いる最上軍と物見山で戦い敗北。

本村親盛(?〜1600)

造酒亟。最上義光攻めの第二陣として横田旨俊、篠井泰信らと上山城を攻めるが、敵将里見民部、草刈志摩守との物見山での戦いで討死した。

須田長義(?〜1615)

須田満親の子。須田氏は信濃の豪族だったが、1553年武田信玄の侵攻により、父須田満親は越後に逃れ、上杉謙信に仕えた。長義は上杉家の会津移封で梁川城主(梁川町)となり、1600年関ヶ原の戦いに際して伊達政宗が梁川城を攻めたが撃退した。1614年大坂冬の陣でも鴫野の戦いで後藤又兵衛と戦い、のちに徳川秀忠から感状を受けた。

千坂景親(1536〜1606)

千坂景長の子。対馬守。鉢盛城主(笹神村)。1578年上杉謙信没後の御館の乱では景勝に属し、武田勝頼との同盟を成功させ、景勝の家督相続を助けた。1582年織田信長によって滅亡寸前の武田家救援のため、信濃海津城に出陣した。のちに京都伏見留守居役を勤め、関ヶ原の戦いの後、上杉家存続のため本多正信と和平交渉に努めた。1603年米沢藩初代江戸家老となる。

安田能元(1543〜1622)

安田景元の子。顕元の弟。上総介。御館の乱では兄顕元とともに上杉景勝の家督相続のため戦った。1580年恩賞が少ないため新発田重家が謀反したことの責任を感じて兄顕元が自害。能元が跡を継ぎ安田城主(柏崎市)となる。1598年主家の会津転封に伴い、二本松城代(二本松市)となる。直江兼続の下で奉行を務め、大石綱元や岩井信能とともに会津三奉行と呼ばれた。1600年関ヶ原の戦いの後も一戦交えようと主張したが景勝に抑えられた。1602年には亀岡文殊の歌会に参加している。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで水原親憲とともに豊臣軍を撃退する活躍を見せた。しかし水原は感状をもらったが能元はもらえず「俺は殿(景勝)のために戦っている。この程度の手柄を申し上げるまでもない。公方(徳川)のために働く必要など無い。公方の感状などは面目でもなんでもない」と言ったという。

平林正恒(1562〜1622)

平林正家の子。旧武田家臣。武田勝頼の命で信濃上尾城主から信濃牧ノ島城主となる。1582年主家滅亡により上杉景勝に仕える。1594年伏見舟入普請を担当。1598年の会津転封で白河城代(白河市)となる。関ヶ原の戦いの後、米沢に転封された後は福島城で伊達・信夫郡の奉行を努めた。1608年春日元忠の後を受けて米沢奉行となる。

岩井信能(?〜1620)

岩井満長の子。備中守。父は信濃岩井城主だったが、越後の上杉謙信に仕えた。1581年御館の乱の論功行賞の不満から毛利秀広が重臣直江信綱と山崎秀仙を斬殺したときは居合わせた信能が毛利秀広を討取った。1582年飯山城主(飯山市)となる。翌年、飯山城下の整備を行っている。1598年主家の会津転封に従い、宮代城に移る。1600年の関ヶ原の戦いでは一時福島城を守る。1602年亀岡文殊(高畠町)で行われた歌会に参加した。1614年大坂冬の陣に出陣している。大石綱元(のち水原親憲)、安田能元と並ぶ会津三奉行の一人で茶の湯の達人であったという。

清野長範(1573〜1634)

平田輔範の子。周防守。助次郎。旧芦名家臣。1589年芦名家が伊達政宗に滅ぼされると浪人となり、越後に逃れて木戸玄斎に仕えた。のちに上杉景勝に近侍し、景勝の信頼を得て重用される。1592年信濃の豪族清野家を継いだ。1598年景勝の会津移封で出身地会津に戻り、伊南城代となる。1601年上杉家の減封で米沢に移り、1633年米沢奉行となる。長範は容貌が非常に美しく、才智があったため景勝に愛され、旧芦名家臣では異例の出世を遂げた。気性が激しい景勝を相手に一度も機嫌を損ねることが無かったともいう。景勝臨終の際、景勝は長範に来世で会うため自分と同じ導師にせよ指示したという。

山浦国清(1546〜?)

村上義清の子。蔵人。源吾。景国。上杉謙信に仕え、沼垂郡笹岡の山浦氏を継ぐ。謙信の側近として活躍し、1578年御館の乱では景勝方で活躍し、功により景国と名を改める。1582年織田信長が本能寺の変で死ぬと、村上氏旧領の北信濃に進出して海津城主となったが、一族が徳川家康に内通した責任により召還された。この件で家は没落し1598年景勝の会津移封で塩松城代となったが、以後の消息は知れない。一説では関ヶ原の戦いで米沢減封となった際に上杉家を退散したともいう。のちに景勝の妻四辻氏の甥でキリシタン公卿の猪熊光則がキリスト教迫害を逃れ米沢の上杉家に仕えて山浦氏を継ぎ、山浦玄蕃を称した。だが弾圧の激化により1653年玄蕃は米沢で斬首された。

大石綱元(1532〜1601)

武蔵国の大石氏の一族。播磨守。山内上杉憲政の家臣だったが、のち上杉謙信に仕える。御館の乱で景勝につき、会津移封後は保原城代(保原町)となる。安田能元、岩井信能とともに会津三奉行に数えられた。

黒金泰忠(1564〜1635)

黒金景信の養子。島倉泰明の子。上野介。1599年神指城築城の総奉行を勤めた。1614年大坂冬の陣では鴫野の戦いで活躍し、徳川秀忠から感状を受けた。1620年江戸城石垣普請や1629年江戸城堀普請の総監も勤めた。

泉沢久秀(?〜1615)

河内守。上田衆の出で、1578年御館の乱では景勝方で戦う。1598年景勝の会津移封で荒砥城代(白鷹町)となる。

安部綱吉(1569〜1646)

菅原内膳の子。右馬助。十市。菅原内膳は越後安部里を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。内膳の子十市は小国、梨郷と渡り歩き、宮内(南陽市)に落ち着き、安部右馬助綱吉を称したと伝えられる。1598年の上杉家入部で信州飯山城主から宮内の宮沢城主となった尾崎重誉の家臣となっている。1600年倉賀野綱元の配下として小滝口(南陽市)から長谷堂城(山形市)を攻め、武功を挙げた。その後、宮内の町割を行い、北条郷(南陽市一帯)の荒地の開発を推し進めた。吉野川の治水や宮内の熊野大社修復にも尽力した。1629年代官兼金山奉行となり金沢、大洞など赤湯(南陽市)周辺の金山を経営した。77歳で没し、息子綱正が開基した宮崎の綱正寺に葬られた。

大熊信次(?〜?)

直江兼続の近侍で稲富一夢祐直に稲富流砲術を学び、米沢藩砲術の重職となった。稲富流砲術は米沢藩に伝わり、上杉鷹山も稲富流砲術の名手であった。

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