赤湯温泉ふるさと祭り

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「2005年のお祭り写真」

神輿渡御が赤湯の街をゆく神輿渡御が赤湯の街をゆく
神輿の担ぎ手姿の管理人稚児行列もゆく
「暴れ獅子」。赤湯の街中での攻防。「暴れ獅子」の頭を鳴らす。
お御坂の攻防。黄色鉢巻側。真ん中の人物が管理人。お御坂の攻防。白鉢巻側。
「暴れ獅子」の獅子頭。祭りを盛り上げる暴れ獅子太鼓。

「それ以前のお祭り写真」

赤湯温泉ふるさと祭り2003。暴れ獅子「御神坂の攻防」赤湯温泉ふるさと祭り2003。暴れ獅子を引く管理人。
赤湯温泉ふるさと祭り2003。暴れ獅子。自動車学校の若い女性達と一緒に一休み。管理人は左端で既に落武者状態(笑)。赤湯温泉ふるさと祭り2003。暴れ獅子「腰が定まらない管理人」
「赤湯温泉ふるさと祭り(烏帽子山八幡宮例大祭)」のフィナーレを飾るイベント「若者獅子」の写真(写真提供:南陽市消防団第七分団一部四班)管理人が参加した2002年の獅子。黄色が前に、白が後ろに引っ張り合いながら赤湯の街を進む。
休憩所にて。獅子を引っ張る赤湯のナイスな若者達。一人で玉こんにゃくを食べてる間抜けは管理人。荷台で「暴れ獅子太鼓」を叩く若者は赤湯のナイスなドラマーKENZO氏。
「暴れ獅子歴史」
「獅子舞」は一般に豊作や慶事を神と共に喜び、舞たわむれる姿をかたどった「振り」があるが、赤湯で明治6年から始まったという「若者獅子」には振りが無く、一般とは異なる。
江戸時代の「天保の大飢饉」は日本全土に及び、特に天保7年の飢饉では東北地方の痛手は甚だしく、死者は10万人に及んだという。その様な中、赤湯では嘉永6年、安政3年と4年間で相次ぐ大火災に見舞われ前回が82軒、後の回では126軒が焼失した。さらに安政5年、置賜地方で初のコレラが大流行し、多数の人命が失われた。その7年後の元治2年にも大火に見舞われ96軒が焼失。さらに5年後明治3年にも大火に遭い、赤湯村民は復興に立ち向かう気力も喪いかけていた。この時、誰からとなく「若人の力で、神の力を借り、村の隅々まで悪を払い、やり直そう」という声が上がり若者組の手により獅子が作られ、「獅子渡行」が創められた。舞とは違い、渡行して村の悪を払い清めるものである。赤湯の人口増加と街の拡大に伴い、道路も増えて渡行順路が定められると、前幕についた黄色鉢巻が順路通り進もうとすると、後幕についた白色鉢巻の若い衆が「横道も村の内」とばかりに引っ張り返すようになった。このもみ合いの形から「暴れ獅子」と呼ばれるようになり、現在の獅子の形になったという。

「子供獅子由来」
子供獅子は昭和53年「赤湯温泉ふるさと祭り」が創められた際、神輿を供奉する稚児行列は小学校の一年生から三年生までの参加と定められ、子供樽神輿は中学二年生が参加することと定められた。小学校四年生から中学一年生までは祭りに燃える年代にも関わらず出番が無く、赤湯の後藤大次郎氏がボーイスカウトの手作りの獅子による獅子舞からヒントを得て、段ボールを素材とした獅子頭による「子供獅子舞」を考案した。昭和54年の赤湯温泉ふるさと祭りで試みに栄町、仲町、緑町のPCAで参加し、地域での評判も好評であった。以後、本町、表町、横町、花見町からも子供獅子参加への申込みがあり、各区の子供達の人数と獅子に充分な人数を考慮して連合の組を四つ編成し、獅子を四方を守る神になぞらえ、色分けした。

即ち、青竜獅子(青、東の守り)、朱雀獅子(赤、南の守り)、白虎獅子(白、西の守り)、玄武獅子(黒、北の守り)である。そして子供獅子は父兄も休みとなる9月15日と定められた。のち、妹背区、二色根区も参加し、六組の獅子が参加するようになったという。なお、子供獅子の型も若者獅子を原型としており、危険の無いよう注意が払われている。

※「子供獅子舞係手帖」(昭和五十八年九月稿、後藤大次郎氏)より

 

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