「2005年のお祭り写真」 |
「それ以前のお祭り写真」 |
「暴れ獅子歴史」 「獅子舞」は一般に豊作や慶事を神と共に喜び、舞たわむれる姿をかたどった「振り」があるが、赤湯で明治6年から始まったという「若者獅子」には振りが無く、一般とは異なる。 江戸時代の「天保の大飢饉」は日本全土に及び、特に天保7年の飢饉では東北地方の痛手は甚だしく、死者は10万人に及んだという。その様な中、赤湯では嘉永6年、安政3年と4年間で相次ぐ大火災に見舞われ前回が82軒、後の回では126軒が焼失した。さらに安政5年、置賜地方で初のコレラが大流行し、多数の人命が失われた。その7年後の元治2年にも大火に見舞われ96軒が焼失。さらに5年後明治3年にも大火に遭い、赤湯村民は復興に立ち向かう気力も喪いかけていた。この時、誰からとなく「若人の力で、神の力を借り、村の隅々まで悪を払い、やり直そう」という声が上がり若者組の手により獅子が作られ、「獅子渡行」が創められた。舞とは違い、渡行して村の悪を払い清めるものである。赤湯の人口増加と街の拡大に伴い、道路も増えて渡行順路が定められると、前幕についた黄色鉢巻が順路通り進もうとすると、後幕についた白色鉢巻の若い衆が「横道も村の内」とばかりに引っ張り返すようになった。このもみ合いの形から「暴れ獅子」と呼ばれるようになり、現在の獅子の形になったという。 「子供獅子由来」 |
即ち、青竜獅子(青、東の守り)、朱雀獅子(赤、南の守り)、白虎獅子(白、西の守り)、玄武獅子(黒、北の守り)である。そして子供獅子は父兄も休みとなる9月15日と定められた。のち、妹背区、二色根区も参加し、六組の獅子が参加するようになったという。なお、子供獅子の型も若者獅子を原型としており、危険の無いよう注意が払われている。 ※「子供獅子舞係手帖」(昭和五十八年九月稿、後藤大次郎氏)より |