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| 「赤湯」の由来はいくつかあり、有名な話が平安後期の1093年に源氏の八幡太郎義家が奥州平定のために戦っていたところ、義家の弟の加茂次郎義綱がこの地を訪れ、八幡のお告げで温泉を見つけ、傷ついた武士を湯治させ、湯が真っ赤に染まったので「赤湯」と呼ばれるようになったという説である。ほかにも鎌倉時代の1312年に弘法大師のお告げを受けた米与惣右衛門によって開湯されたという説もあり、さらにアイヌ語の熱泉(アツカユ)からきたという説や赤井郷という呼称が変化したという説など幾つかある。吉田東伍博士によると伊達氏支配の頃、湯村、湯目といった豪族がおり、赤湯の旧名が湯野目であると指摘して伊達氏の時代には温泉が存在していたと指摘している。戦国時代の赤湯は伊達氏の領地で伊達政宗の大叔父、康甫が東昌寺(東正寺)住職だったこともあるという。「独眼龍」で有名な、あの伊達政宗(当時米沢城主)も赤湯温泉に湯治に来たらしい。 江戸時代には米沢藩が「箱湯」として保護し、赤湯御殿も置かれて歴代の米沢藩主が湯治に訪れていた。上杉の奥座敷といわれるが、庶民の遊興の場でもあり、江戸時代の諸国温泉番付でも上位に位置している。また、赤湯は鍋(遊女)が多く、遊郭もあり、色街としても繁栄していた。だが、藩主上杉重定の下で実権を握った森平右衛門と組んだ赤湯御殿守の佐藤平次兵衛は北条郷代官の地位を得て農民から厳しく取立て、赤湯稲荷を建てて賄賂を集め、青苧に課税したため「青苧一揆」が勃発した。その後、竹俣当綱によって森が誅殺され、佐藤平次兵衛も松原で処刑された。赤湯御殿の御殿守は大湯の湯守である米家が一時兼務し、のち米沢の田村家が入る。だが火災に遭って赤湯御殿は棄てられ、石岡家が自費で再建して御殿守になったという。上杉重定の後、米沢藩主となった名君上杉鷹山は藩政改革を進める中で、家臣達が「赤湯で遊ばない者は野暮だと笑うものすらいる」「禁止しなければ税金が多く入る」「他国からも商人に入る」「禁止すれば犯す者が出る」と反対するのを押し切って「良民を遊惰にし、少年を淫逸にする」「害あって利なし」として寛政7年(1795年)遊女を禁じた。また赤湯の馬市も米沢馬口労町に移させ、赤湯は一時、衰退している。しかし鷹山本人はたびたび赤湯に湯治に訪れており、遊興地で利権も絡む赤湯温泉を重要視していたと思われる。 |
| 明治時代にはイギリスの女性旅行家イサベラ・バード(『日本奥地紀行』の著者)が訪れ、騒がしいと宿泊を避けるほど赤湯は繁栄していた。しかし、鉄道開通後は駅から遠いため、衰退の一途をたどり、駅と温泉街を結んだ赤湯人車軌道も不振に終わった。現在の赤湯は往時ほどの繁栄ぶりは見られないが、桜の名所「烏帽子山公園」などの観光地を抱え、朝市や桜祭り・ふるさと祭りなどのイベントも多く、桜や祭りの時期には多くの観光客が訪れる。 「藩主の御入湯と近隣の散策」 参考『年表・写真でみる南陽市史』『上杉家御年譜』ほか |