赤湯温泉

烏帽子山の見晴台からさらに登った山頂(秋葉神社付近)にある「臨雲亭」の跡。旧八幡神社。明治に烏帽子山に移るまで北町にあった。

(写真左:烏帽子山の見晴台からさらに登った山頂(秋葉神社付近)にある「臨雲亭」の跡。)

(写真右:旧八幡神社。明治に烏帽子山に移るまで北町にあった。)

烏帽子山八幡宮の大鳥居と枝垂桜。継ぎ目無しの石鳥居では日本一の大鳥居。

(写真:烏帽子山八幡宮の大鳥居と枝垂桜。継ぎ目無しの石鳥居では日本一の大鳥居。)

日本一の大鳥居の注連縄架け替え作業。烏帽子山の由来となった烏帽子石。磨崖碑である。

(写真左:日本一の大鳥居の注連縄架け替え作業。)(写真右:烏帽子山の由来となった烏帽子石。磨崖碑である。)

赤湯温泉街から烏帽子山公園に登る御神坂。烏帽子山八幡宮の御神木、二代目放鳥目白桜。

(写真左:赤湯温泉街から烏帽子山公園に登る御神坂。)(写真右:烏帽子山八幡宮の御神木、二代目放鳥目白桜。)

赤湯温泉の観光センター「ゆーなびからころ館」。奥に「大湯」「丹波湯」を統合した公衆浴場「赤湯元湯」がある。足湯の傍にある赤湯温泉源泉記念碑。

(写真左:赤湯温泉の観光センター「ゆーなびからころ館」。奥に「大湯」「丹波湯」を統合した公衆浴場「赤湯元湯」がある。)

(写真右:足湯の傍にある赤湯温泉源泉記念碑。)

「赤湯」の地名は平安後期の1093年に源氏の八幡太郎義家が奥州平定のために戦っていたところ、義家の弟の加茂次郎義綱がこの地を訪れ、八幡のお告げで温泉を見つけ、傷ついた武士を湯治させ、湯が真っ赤に染まったので「赤湯」と呼ばれるようになったという。アイヌ語の熱泉(アツカユ)からきた説や赤井郷という呼称が変化した説もある。温泉の発見は鎌倉時代の1312年に弘法大師のお告げを受けた米与惣右衛門によって開湯された説もある。伊達氏の時代、近辺に湯目氏という豪族がおり、赤湯の旧名が湯野目であると指摘する説もある。戦国時代の赤湯は伊達輝宗(政宗の父)の叔父、大有康甫が東昌寺(東正寺)住職だった。伊達輝宗も赤湯温泉に湯治に訪れたという。

江戸時代になると米沢藩が「箱湯」として保護し、赤湯御殿も置かれて歴代の米沢藩主が湯治に訪れていた。上杉の奥座敷といわれるが、庶民の遊興の場でもあり、江戸時代の諸国温泉番付でも上位に位置している。また、赤湯は遊女(鍋)が多く、遊郭もあり、色街としても繁栄していた。藩主上杉重定のもとで実権を握った森平右衛門利真は郡奉行や副代官、大庄屋などを設置して郡村の支配体制を強化しつつ積極的かつ強引な商業政策を展開して藩の収入増のために専制的政治を行った。赤湯の佐藤平次兵衛は森と組んで北条郷代官となり農民から取立て、稲荷を建てて金を集め、青苧に課税したため「青苧一揆」が勃発したという。しかし、竹俣当綱によって森が誅殺され、藩主重定が隠居に追い込まれると佐藤も松原で処刑された。重定に代わって米沢藩主となった名君上杉鷹山公は竹俣当綱を重用して藩政改革を進めていたが、赤湯の遊女問題について禁止を提言した莅戸善政らに対し、興譲館督学で「転法派(改革急進派、専売制強化)」の神保綱忠らが「禁止しなければ税金が多く入る」「他国者からも商人に入る」「禁止すればかえって罪を犯す者が出る」と遊女禁止に反対するのを押し切り、鷹山公は「良民を遊惰にし、少年を淫逸にする」「害あって利なし」と莅戸を支持し、寛政7年(1795年)遊女を禁じた。また赤湯の馬市も米沢馬口労町に移させたので、赤湯は一時衰退した。しかし鷹山公は温泉としての赤湯を愛し、20歳から70歳にかけて隠居した重定や養子の治広、師の細井平洲らと度々赤湯に湯治に訪れた。また鷹山公は赤湯の風景も愛し、白龍湖や鳥上坂、東正寺など「赤湯八景」を画家の目賀田雲川に描かせ、莅戸善政、神保綱忠ら家臣が漢詩を添えて『丹泉八勝詩画』をつくらせた。その後、興譲館に学び神保綱忠の弟子となった漢学者松木魯堂は私学の勃興のため、赤湯烏帽子山山頂に「臨雲亭」を建て、藩の歴史の執筆が行われたり、文人・墨客が集まり詩や文章を作った。

明治十一年(1878年)にはイギリスの女性旅行家イサベラ・バード(『日本奥地紀行』の著者)が訪れ、米沢平野を「エデンの園」「アジアのアルカディア」と賞賛する一方、騒がしいと宿泊を避けるほど赤湯は繁栄していた。赤湯の烏帽子山公園は春になると千本桜が咲き乱れる桜の名所として知られ、「置賜桜回廊」の一つであるが、烏帽子山が公園として整備されたのは明治十九年に赤湯温泉の湯の山遊園として整備されてからである。赤湯の町が二年続けての大火に見舞われ、赤湯復興のために畑を買収し、多くの人々に呼びかけて当時のお金で三万円、人夫は四万人、そして十一年の歳月をかけてようやく公園が完成した。当初は偕楽園と呼ばれたが、後に烏帽子石に由来して烏帽子山公園になったという。明治二十三年烏帽子山公園の整備に合わせて烏帽子山八幡宮が現在の公園内に遷座した。旧八幡神社は赤湯北町の八幡沢という場所にあった。源義家(八幡太郎義家)が「後三年の役」で奥州平定に向かった際、義家の弟加茂次郎義綱が、赤湯で温泉を見つけた際、祠を建てて武運長久を祈願したことが起源とされる。烏帽子山八幡宮の石段には継目なしの石鳥居では日本一の大きさを誇る大鳥居がある。この鳥居は明治三十五年から三十六年にかけて八幡宮裏から切り出した凝灰岩を用いて製作建立したという。烏帽子山の由来となった烏帽子石は赤湯七石の一つとされ、古文書には塩釜明神の使いが慈覚大師のもとに来て問答した後、塩釜に帰る際に烏帽子をかけた石とされるが巨大な磨崖碑である。八幡宮境内には新々刀の祖で名刀工として知られる水心子正秀の顕彰碑がある。水心子正秀(1750〜1825)は南陽市元中山の諏訪原に生まれた。本名は鈴木三治郎。父を早くに失い、赤湯北町の外山家で育ったという。鈴木宅英と称して江戸に出て刀鍛冶の道を歩み、武州八王子の刀工下原吉英の弟子を経て安永三年(1774年)山形藩主秋元但馬守永朝のお抱え刀工となった。「水心子正秀」の他「鈴木三郎藤原宅英」、「川部儀八郎藤原正秀」、晩年には「天秀」などと様々に名乗り、多くの名刀を残した。復古刀を提唱し『刀剣弁擬』『刀剣実用論』『剣工秘伝志』などを著した。名刀工、荘司直胤(山形市鍛治町出身)ら百余名の門弟を育てたまさに新々刀の祖である。烏帽子山八幡宮にはこの水心子正秀銘の脇差が伝わる。