昌 伝 庵 の 由 緒

1 会津に建立された正伝庵
 

  建武2年(1335年)8月17日夜、奥州会津の三浦大夫判官遠江守盛員は、その子高盛

ともに、鎌倉片瀬において討死した。 盛員は「正伝庵耕福月浦道圓」と號す。
 盛員の嫡孫若狭守直盛が、その冥福を祈り、会津に「正伝庵」を建立した。

   由緒書では当初会津に建立されたようだが、何故その寺が現在米沢にあるのかは謎である。
 また、真言宗の本尊である大日如来が祀られていることから、元々は真言宗系の寺であり、

 伊達時代に再開基されたときに、領主の信仰していた禅宗系に改宗したとも考えられる。


2 米沢での昌伝庵

 室町時代の中期永正5年1505年3月16日舘山城に居住していた伊達家13世香山公
 尚宗の3男久松丸が6歳で亡くなった。龍山寺殿昌伝久公大居士(一に奕葉院殿昌伝久公大禅定門)
 と法諡して、米沢のあら町(伊達時代の町で、今の県立米沢東高等学校付近)に寺を建立。

福井県坂井郡細呂木村深浦の総持寺前住で大芸寺5世喜山高悦を迎え開山となし、寺領27石を
 付して大芸寺の末寺とした。「奕葉山昌伝庵」は、久松丸の戒名からつけられたものである。
  
   それから35年後の天文8年1539年伊達家14世直山公稙宗の4男玄蕃丸が8歳で逝去し

昌伝庵へ葬られた。 このとき稙宗は、下名倉・信夫郡・小倉・庄の村・長井川・前田のうちから

寺領57石を寄進した。「おのおの玄蕃丸のために寄進し(中略)末代において相違あるべからず候。

依って後日のためせう状如件。 天文8年5月29日 しょうでんあんへ」と、領知状を与えた。

(寺の南側の現況の田地やテニスコート(元は田地)なども、伊達家からいただいたものであったが、

戦後、昭和277月、農地法の制定により、国家買い上げとなり、寺の所有ではなくなった。)

   これらのことから昌伝庵は当初は会津に建立されたのだがその後米沢に移転或いは再建され、
 伊達尚宗・稙宗の2代にわたって愛児の廟とした寺で、君公自ら再開基した寺である。


〈昌伝庵由緒の板碑 ―久松丸と玄蕃丸の供養碑と伝えられる室町時代の板碑。― 〉

      

 
   五輪の塔が2体浮き彫りになっているが、残念ながら文字は摩滅していて読めない。



3 伊達家の移封とともに

  天正19年(1591年)、伊達家17世(独眼流)政宗は米沢から岩出山へ移封され、その後
 仙台へ移り大城下町を造営した。荒町に昌伝庵も建立され現在に至っている。(仙台市若林区荒町)
(首座寺院の寺格で、松音寺・泰心院・輪王寺とともに仙台藩四カ録司の一つとして重きをなした。)



     

    

              〔伊達家系図・年表〕