大日如来座像調査の概要
        【 県指定文化財調査より  ―平成7年度調査― 】

   当大日如来像は、昭和58・59・62年の3カ年にわたって行われた米沢市の仏像調査に
  よって、昭和63年に米沢市指定文化財となり、平成8年には再度調査の結果、山形県指定
  文化財となったものである。墨書銘のある仏像では、米沢市内では最古のものとなっている。
   ここでは、仏像に関心を持たれこのページを訪問された方のために、県指定のために行わ
  れた平成7年度の調査より、その概要をご説明いたします。

   なお、調査は当時山形大学助教授(後に群馬県立女子大学教授)の麻木脩平氏、及び、
  米沢市教育委員会によって行われました。
                                           

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 [ 品 質 ]  木造 ・ 漆箔 ・ 玉眼
 [ 形 状 ]  髪際部は疎(まぼら)彫りと毛筋彫り。後頭部は毛筋彫り。髪際部から上は八角
柱状に彫り出し,頂部に簡略な疎(まぼら)彫りを施す。当初は髪際部から上に八
角柱状の宝冠をつけていたものと見られる。鬢髪一条が両耳をわたる。右肩
から右腕を偏衫(へんざん)で覆いその上に衲衣を着す。衲衣は左肩を覆い、右肩
に懸かって、右上膊部を巻いて腹部をわたり、その衣端は左肩から左上膊部
を覆う。また、腹部を覆う衲衣の下端は、結跏する両足中央部に広いU字形状
に垂れる。下半身には裙(くん)を着し、腹前で定印を結び、結跏趺座する。
 [ 構 造 ]  割矧()ぎづくり。頭・体の根幹部は通して一材から彫りだし、両目後ろを透る
線で前後に割矧()ぎ、内(うち)刳()りの上、衲衣の襟際に沿ってノミを入れて
頭胸不を割り離し、玉眼を嵌入(がんにゅう)する。これに両肩から像底に至る左右
の体側部各一材を寄せ、両脚部も横木一材を寄せるがこの材は現状では前後
に割れている。 両手首から先は一材を矧ぎ、両手前膊部に懸かる袖口部も、
各別材を矧ぎつけている。像底は、地付より4〜5p高のところで材を底板状に
彫り残し、いわゆる上げ底にしている。
 [ 彩色等 ]  毛筋彫りを施した頭髪部は墨をまじえた群青彩。肉身部・衣部は共に漆箔を
施すが、現状では箔の下に赤っぽい茶色の層が見られる。
 なお、現状の漆箔が当初のものかは不明。
 [ 現 状 ]

 右の玉眼が欠落し、左耳後半が欠失し、右耳朶(たぶ)も損傷している。また
右前膊部に懸かる偏衫(へんざん)の袖口部も大きく割損している。両脚部も本来
一材であるのに、現状では前後に割れている。  台座は江戸時代の後補。

 [ 作 者 ]  兵部法眼円慶 ・ 式部法橋宗祐
 [制作年代]  延文5年(1360年)  … 南北朝時代(室町時代)
 [ 伝 来 ]

 昌伝庵は永正5年(1508年)、一説には永正3年に伊達尚宗が愛児の菩提
のために米沢に創建したと伝えるが、本像はそれより148年も遡る制作である
から、他の寺から移入されたとも考えられる。また、寺伝によれば、昌伝庵には
その前身にあたる寺が会津にあったとされる。その寺は建武2年(1335年)
に中先代の乱で討死した三浦(葦名)盛員・高盛親子の冥福のために、嫡孫の
直盛が建立した寺で、「正伝庵」と称していたという。しかし、米沢昌伝庵建立時
と伝える永正5年(1508年)では会津はまだ葦名氏の支配下にあり、その時期
に伊達氏が会津の葦名氏ゆかりの寺を米沢に移すなど到底あり得ることでは
ないと思われる。ただし、天正17年(1589年)に葦名氏を滅ぼした後ならば、
伊達氏が会津にあった寺の仏像を米沢に移すことはあり得たかもしれない。
 しかし、いずれにしても信頼するに足る資料が乏しい現状では、本像の伝来
は不明というしかないであろう。  なお、宝暦13年(1763年)の「東町水帳」
(市立米沢図書館蔵)に載っている昌伝庵の絵図には大日堂が描かれている
から、本像の伝来が宝暦以前に遡ることはいうまでもない。

 [ 銘 文 ]  像内には、@ 背部裏面、A 胸部裏面、B 両脚部裏面、の3ヶ所に墨書銘
があり、いずれも同時期の筆と思われる。
[本像の特色]  本像は、像内墨書銘により制作年作者名ともに明らかにし得る点貴重である
が、作者である円慶と宗祐については、これまで他に作例が知られておらず、
どういう系統の仏師であるのか必ずしも判然としない。しかし、像底を上げ底式
に刳り残す造像法は運慶が創始したと推定されており、慶派作品にはこの技法
を用いたものがしばしば認められる。 しかし、鎌倉末から南北朝時代にかけて
慶派と造像界の覇権を争った院派仏師の作品には、この技法を採用するもの
が極端に少ない。また、作風の点でも、院派の仏像彫刻の場合、箱形の体躯や
独特のくせのある太めの衣文を刻む例が多いのに対し、本像にはそうした特色
は見られず、衣の襞などは布の柔らかな材質感を巧みにあらわしている。
 14世紀後半の作品としては、鎌倉時代の写実的作風をかなりよく守っている
例といえる。 また、当時は等身以上の小像でも寄せ木造りが多い中で、一本
割矧造りを採用しており、この点も保守的と言えるかもしれない。
 以上、あげた特色は14世紀半ば以降の慶派本流である京都の七条仏所系
仏師の作品ともやや異なるところがあり、事実この系統の仏師の系譜を記した
「本朝大仏師正統系図末流」には、円慶も宗祐も登場しない。しかし、そのすぐ
れた出来映えや、円慶が、この時点で法眼の僧綱位を持っていることなどを
考慮すると、この二人は単なる地方的な仏師であったとは思われない。その
写実味の強い作風や上げ底式の造像技法などから考えて、この二人はやはり
広い意味での慶派の仏師ととらえるのがふさわしく、おそらく傍系の仏師であっ
たが故に正統系図には記されなかったのであろう。なお、本像は大日如来像
と伝えられているが、大日如来像にしては衲衣と偏衫(へんざん)を直用する形姿
が不審で(通例は上半身は裸形で左肩から条帛をかけ、下半身には裙(kん)を
つける)。  あるいは、南北朝〜室町時代に禅宗寺院を中心に流行した宝冠
釈迦像である可能性も考えられよう。ただし、先に引いた宝暦13年(1763年)
「東町水帳」に載せる昌伝庵の絵図には大日堂が描かれているところから、
江戸時代には、本像が大日如来像と信じられていたことは確かである。

[調査者意見]  南北朝時代以降、日本の仏像彫刻は急速に質的な低下を見せるが、そうした
中にあって、本像はかなり整った像容を示し、特に法衣の襞や縁の彫り出しは
写実味が豊かで、14世紀後半の作品としては類例を見ないほどの技巧の冴え
が認められる。その上、制作年代・作者とも明確であり、当代仏像彫刻の基準
作例と言える。 また、像内墨書銘は歴史資料としての価値もある
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