梓山獅子踊の復興


  梓山は山形県南の玄関口である米沢市を通る国道13号線の沿線にある約150戸ほどの集落である。明治14年山形県令三島通庸によって栗子隧道が開通されたことによって交通の便が急速に良くなり、物流をはじめ文化面でも大きな役割を果たした。そして明治天皇が東北をご巡幸の際この道路の開通式を行い、後に万世大路と名付けられた。
 それまでは米沢から福島へは板谷街道が主な道路であり、梓山を通って刈安、赤浜から福島への通路は公道としては使用されていなかった。刈安も梓山も陸の孤島のような存在だった。
 梓山は上組と下組みに分かれており、それぞれ社会活動が行われていた。そして寺も上組には法将寺、下組みには松林寺があり、特に松林寺は曹洞宗として多くの末寺を持っていた。
 この梓山に天明3年(1783)以前に獅子踊があったことを裏付けるものとして次の3点をあげておきたい。

@梓山村上組獅子踊本記による記述によって、寛政9年(1794)我妻隆助翁15歳のとき法将寺に獅子頭のあるを見つけ、獅子踊の復興を図ったこと。
A梓山字上窪の辻に豊年祭りという石塔があり、獅子踊31人、念仏踊54人とあり建立時期が天明3年7月27日とあること。
B伊達治家記録天正15年(1589)年7月24日の頃に政宗が片倉小十郎宅にて常州佐竹の獅子踊と地元の獅子踊を見るとあること。(もっとも地元の獅子踊が梓山の獅子踊かどうかは断定できないが)

 梓山の獅子踊が天明3年の石塔によって明らかなように豊年踊として念仏踊とともに踊られていたことが窺い知ることが出来る。しかし天明の飢饉が尽大であったため天明4年から5年には踊は止められたものと思われる。藩においても天明3年に歌舞音曲の制限を行っており、中止したものと思われる。
 獅子踊本記によると寛政9年までの約15年間ほど途絶えたことになる。