上組獅子踊の由来と伝承
梓山上組獅子踊の先祖は、正親町天皇が天正2年(1574)京都に禁裏御所造営の際地固め祭りにおいて、文武百官の前で踊り「天下一」と称され、併せて『日の丸の扇」のまといを賜った。その後、
寛永11年(1634)徳川三代将軍家光公が日光東照宮を造営の時、文挟部落の獅子踊が地固め踊を奉納し「天下一関東文挟踊」の称号を賜った。そしてこの踊りが益々有名になり、名人文挟太夫泉谷庄左衛門が全国流布の折、梓山に滞在し踊を伝授された。地元の念仏踊とともに天明3年(1783)まで踊られていたことが石碑によって明白である。
その後途絶えて獅子頭3個のみが法将寺にあるのを見た、当時15歳の我妻隆助翁が中心となり、寛政9年(1797)から文化14年(1817)まで21年かかって南原李山の長右衛門に教えてもらい3種の踊を完成させた。
また文政11年(1829)には会津の下柴村文挟流古橋角太夫からも各種の秘法を伝授した。
獅子踊は毎年法将寺の境内で豊作祭りの踊として盆の15・16日に明治の終わり頃まで踊られていた。大正年間にも数回踊られたが途絶えたままになっていた。
昭和28年、福島・米沢間国鉄電化完成祝いの折に、宮坂善助翁から我妻菊次村長への出演要請が契機となって宍戸勇太郎翁を中心として約35年ぶりの復興で現在に至っている。
曲目は「梵天舞」「花吸舞」「鶏徳舞」の三庭からなり、それぞれ30〜40分の踊で男性的で勇壮である。