米沢藩砲術の由来


火縄銃は天文12年(1543)種子島に伝来した。
その後織田信長によって製造が進み大量に国産化されてきた。
上杉謙信はいち早くこの鉄砲の威力を察知し、その入手に力を入れた。

景勝の時代になると、越後でも製造するようになった。
その後米沢に移封された時、軍備として秘密裏に近江の国より吉川惣兵衛、泉州堺より泉屋松右衛門を招き、譜代の鍛冶職小山清左衛門らを集め、吾妻山中(山形県米沢市白布温泉)において一千挺の鉄砲を製造した。

発砲の流儀も種々あったが、米沢に残る稲富流砲術は慶長年間播磨(兵庫県)に住んだ稲富伊賀守祐直が元祖と言われ、初代藩主上杉景勝は家臣にこの流派を学ばせた。
また、種子島流を丸田九左衛門に学ばせた。
米沢では大熊伝兵衛と丸田九左衛門を鉄砲頭として代々砲術に励んできた。

上杉鷹山の時代には、森重靭負都由に森重流を学んだ。
戦のない平安の世になっても武士は武術として訓練を怠らなかった。

明治に入り、明治34年1月8日、日露戦争旅順口陥落の市民大祝勝会が行われた。
この時、市中を甲冑行列し松川河原において川中島模擬合戦が行われた。
以後、上杉神社祭礼には古式武装行列を行うこととし、昭和18年頃まで続いた。(尚武要鑑会)

戦後昭和30年3月30日、米沢尚武要鑑会が再復興し、武者行列に騎馬隊・鉄砲隊が加わった。
尚武要鑑会の副会長であった宮坂善助(宮坂考古館初代館長)は、祭りになると隊員たちを集め準備し、宮坂家の女衆は隊員たちのおにぎり作りや馬の飼葉の用意やらでお祭りをほとんど見たことがなかったという。

翌昭和31年からは、火縄銃発砲の遠征が始まった。上山祭り、福島、高畠などでの祝砲や弔砲が主で数人の遠征であった。

隊員も充実した昭和34年には、会津祭り市制60周年行事に参加、発砲体制を稲富流の実践射法により三隊編成とした。

昭和36年、隊の名称を米沢藩稲富流砲術隊とし、秋田国体に参加。
以後、東京オリンピック・札幌オリンピックなど活動も全国規模となった。
隊長宮坂善助は49年に死亡。
宮坂弘が隊長を継ぐ。
姉妹都市・親善友好都市でも活躍。

火縄銃30匁筒は、米沢市の文化財として指定を受けたが陳列しておくだけではその真価を見ることはでないので、火縄銃の取り扱いや発砲の威力を感じてもらいたいと考えた。
その古式砲術の伝承のため、昭和54年「米沢藩古式砲術保存会」と改組、充実した。

昭和58年、隊長宮坂弘が死亡。
宮坂直樹が隊長を継ぐ。

昭和63年、日本文化を紹介する「ヨーロッパジャパンウィーク」参加でフランスへ。

平成4年、バルセロナオリンピックの年、スペインへ。国際的な交流を図る。

平成7年5月4日、第一回日本古式砲術サミットが米沢市で開催され、全国から7団体が参加。
見事な古式砲術を披露した。

「上杉の雷筒」と恐れられたその威力は今でも驚嘆させられる。
実践さながらのこの砲術は戦国の絵巻を見事に再現している。




余談その壱

火縄銃はこの時期以前に発明され日本に伝わった形跡がある。
それは蒙古襲来のときであり、その時、鉄の筒が日本では何に使うものか理解できなかった。



余談その弐

火縄銃が伝来した1543年以前、日本にはネジが存在しなかった。
日本の武具等は全て「かしめる」という方法であった。
火縄銃には尾栓を止めるためにネジが使われていた。
このとき始めて日本に「ネジ文化」が伝来した。