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 釣行記

朝日連峰  野川  三淵伝説
大蛇に権化した「卯の花姫」
我妻 徳雄

 
 木地山ダムと菅野ダムの間、布谷沢出合いの上流部が三淵である。この淵には、恋にやぶれた女の悲しい伝説がある。伝説はあくまでも伝説であって、史実とかかわりがあろうとなかろうとそれは別問題であろう。
 時代は平安から鎌倉に変わろうとしていた。その頃、都からは阿部の貞任(東北の大豪族)・宗任兄弟を追討するため、源頼義と長男の八幡太郎義家親子が奥州にくだってきた。貞任の息女に「卯の花姫」という妙齢の女子があった。
 長井の庄は地勢が険しく、敵を防ぐには適した地であったから、貞任は「卯の花姫」を長井に送り、この地を守らせた。姫は四方の道を塞ぎ、朝日の道一筋だけを残し館をかまえた。
 義家は卯の花姫に何度も何度も偽りの文を送り続けた。
「わたしが奥州に兵を進めているのは、決して私の意志ではありません。君命もだしがたく、弓矢を取って旗を進めているのです。そのため即戦即決は望まず、虚しく月日を送っているのは将軍(貞任)の降伏を待っているのです。将軍ともども都に帰り、朝廷に対してわたしが宜しく奏上すれば、安全は保証いたします。」
 三淵(大ゴルジュ帯)入り口「そのあかつきは姫をわたしの「北の方」(正妻)に申し受けて、都にお迎えいたします。このことは神仏に誓って嘘いつわりはありません。ただし他人にもらして下さるな。」というものであった。
 姫は始め相手になどなさらなかったが、都の東男の洗練された文に、しだいに心を開いていった。そして、義家の戦略とも知らず心にお慕いしていた。義家は姫を頼りに貞任の軍法などを巧みに聞きだした。そして、所どころの合戦に勝利をおさめ、ついに貞任を戦死に追い込んだ。所どころの合戦に勝利を得てからは、姫に対して義家の「たより」はぷっつりと途絶えた。
 姫は父貞任の戦死の報を聞き「都の人はいつわりの言葉が多いから用心せよ」と「父君に強く戒められておったのに・・・・・」と大いに嘆いた。また「父君を殺したのはわたしであった」といって、さめざめと流れる涙をとめることができなっかた。
 小国郷を征服した義家の軍勢は、長井郷へと攻め込んできた。いまは、朝日岩上の僧衆に頼るほかにないと、野川の口から逃げ路を越えて、朝日岩上の堂字(どうう)をめざした。山道を越えてようやく三淵に至り着いた時、朝日岩上の僧徒が、いきせき切って駆け付けた。
 僧徒のいうことは「義家の兵が間道(ぬけ道)を越えて攻め入り、岩上の堂字が焼き払われ、軍勢に取り囲まれた。」というものであった。
 卯の花姫は「さらば、これまでなり」とて、あやのうえのきぬ(表衣)をぬいで頭をおおい、岩々数丈の絶壁の上から、三淵のまん中に飛び込んで果てられたのであった。
 お供に従う女房たち、局(つぼね)たちも姫に続いて断がいから三淵に身を投じ、見る間に34人が相はてた。
 この様を見るより、従う郎党、殿ばらも、主人がかく成り給う上は、生き残ったとて何かせん。死んで未来のお供を申さんとて、百騎余りのつわものども、ここに残らず死にはてたのであった。
 卯の花姫は三淵に身を投じて大蛇に権化したといい伝えられる。そして、現在の三淵には卯の花姫の御霊が一条の血となって岸壁に印されている。
 大蛇に権化した「卯の花姫」は「牛の涎」宮村長沼牛翁著を参考に、地元氏子の皆さんの話を交え、小生が勝手に解釈したものです。
卯の花姫が祭られた石堂 従って、地元の伝説とは幾分異なるかも知れません。(わがつま とくお)

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