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 釣行記
No52-3 連載  群遊会流「安全で楽しい渓の遊び方」
PARTU 「渓の危険予知」

行け−、突っ込め−、登れ−、根性だー!!
松島 秀治
俺が松島ダ
 会報編集部より、「溪の技術について原稿を書け。」と厳命が下った。軽く返事はしたものの、ハッキリ言って渓谷遡行の技術は多岐にわたっているし、そう簡単に書けるもんじゃない。それにその類いの技術書は一杯出版されているし、『渓流』誌にも度々書かれている。今さら俺がとも思うし、まして中途半端な事を書いては法螺吹き会長の汚名を被りかねない。
 そこで、今回は技術以前の問題に限定する事にした。
 それは危険予知能力の開発である。なんてったって渓谷の遡行は楽しい。淵有り、ゴルジュ有り、滝有り、岩魚釣りも良いし星を眺めながらのビバークも最高。さらに焚火を囲んでの酒も至上の幸福感を与えてくれる。それになんと言っても気のおける仲間達とのバカッパナシは、ホントに(いろんな意味で)生きてて良かったと思うぐらいである。
 そんな楽しい渓谷の旅がメダルの表だとすれば、もちろん裏にはその正反対が待ち受けている。高巻き中に草付きや岩のホールドが崩れたり、落石にあったり、必死で打ち込んだハーケンがいとも簡単にスッポ抜けたり、滝からロープ無しのバンジ−ジャンプをやったり、熊と正面衝突をしたり、マムシと噛み合いっこをしたり、大岩魚に底なしの淵に引きずり込まれたり等々。そりゃあ数え出したらキリがないぐらいである。
 要するに、危険は一杯一杯有りますよ。と言う事なんだけど、あんまり危ない危ないと言うと、「そんなに危ない所に行かなきゃいいジャン」と言われるし、それを言われるとまっ 実も蓋もないわけでして、ここではそういう事は置いといて、未然にそういった危険に極力逢わないようにするにはなにが大事なのかというあたりを、技術的な問題はさておいてチョ−独断とチョ−偏見で言わせてもらおう。
 それはなんといっても、動物的な野性の勘である。この徒渉はできるかどうか水流の強さや深さ、またこの高
ゴルジュをラッコで下る。
巻はどのルートが最適か、ビバーク地はどこにするか、天気はどうか、ここは晴れていても山のてっぺんは雨が振ってはいないか、道に迷ってもちゃんと正確な判断と行動によって正しいルートにもどれるか、仲間の体力や気分がいつも把握できているか等である。もちろん、一定の知識や経験また道具の使いこなしができるという前提ではあるが。我々が下界で生活しているときは、ハッキリいって野性の勘なぞは必要無いし、たとえ登山にいっても整備された登山道を辿り山小屋に泊まるだけであれば必要なのはわずかな体力とモラルだけである。しかし、当たり前の事だが源流行となればそうはいかない。道はもちろん無いし、山小屋も無い。食料やビバーク用具、各種装備も自分で担いで行かなければならない。稜線に出てもいつも登山道が有るとは限らない。自分でルートを判断し見つけなければならないわけです。地図やコンパスの見方や使い方は当然解っていなければなりませんが、そればっかりに頼り過ぎてしまうのも僕としては?なのです。昔からマダギや山人が地図やコンパスを使っていたなんて話は聞いた事が無い。太陽や星の位置、山の形や植生、溪の流れの方向、動物の歩いた後の獣道の方向などを総合的に判断し、自分の進むべき道を判断してきたのではないか。山に入ると町場では決して目覚めてこない野性の勘というか、研ぎすまされて行く感性を感じる事が有る。1日目より2日目、2日目より3日目と山に永く要れば要る程その感が強くなる。
 
激流を遡行する。
溪の流れの瀬音や、山毛欅のざわめき、風の声や様々な匂いが自分の身体を包み込みいつしか一体感を感じられるようになる。この時が、あー人間も本当に自然の一部なんだということが少しだけ分かったような気になるときである。また、ちっぽけで本当に弱い生物である自分という人間が、ちょっとだけ強く逞しくなったように思える時でもある。こういうときは五感のみならずシックスセンスが良く働く時でもある。耳はぴくぴくと動き、目はどんな動きにも敏感に反応し、匂いを嗅ぎ分け、見えなかったスタンスやホールド、進むべき道が鮮やかに目に飛び込んでくる。まさに野性である。飛ぶように溪を駆け、さるのように滝を攀り、ゴルジュを岩魚のように泳ぐ。こうなればシメタもの。その一瞬から貴方は熊かカモシカです。ところで、斯くゆう私はまだそこまでの域に達した事はないのであしからず。
 相変わらず、山にはいっても全く動こうともせず、釣りもしないで朝から晩まで飲み続けているヘッポコ会長の戯言を信用してはいけません。で、結局のところ会員の皆さんは各自精進して下さいネ。 (まつしま しゅうじ)

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