釣行記 | トップページ
 釣行記

49-2岩井又沢と朴念仁

俺の人生の3日間返してけろ

吾妻 渓  


 昨年の4月に山形から米沢に転勤になった。職場には渓流釣りの好きな者もいて、時々釣りの話で盛り上がったりした。輪の中に職場の上司というか、同僚というか僚と言うかどちらでもいいのだが、微妙な立場の中村さんもいた。
 話のうちは良かったが、話を聞けば行きたくなるのは世の常、中村さんも渓へ同行したいと言い始めた。初めのうちは何らかの理由を付けては断っていたのだが、9月になると渓流シーズンの終了も近いこともあってか、中村さんの催促は急を告げた。そして、人のいい私はついに同行を承諾した。
 「中村さんそれでどこに行きたいんですか。」一応上司のような人なので丁寧な言葉で聞いた。
 「吾妻の松川か三面の岩井又沢に行ってみたい。」と中村さんは軽く言いきった。
 一瞬むっときた。中村さんの力量はおおよその検討はついていた。おそらくバカ長を履いての渓流釣りに毛の生えたようなものだろう。
 「吾妻の松川ですか、あそこは相当きついですよ。ザイルを張ってのクライミングになりますが、ザイルワークは出来るんですか。」
 そこは一応上司のような人なので丁寧な言葉で訊いた。
 「登山屋でハーネスとザイルは買ったから大丈夫だ。」中村さんは真顔で答えた。
 はー、それは持っていると言うことだろう。
 「中村さん、ハーネスとザイル使ったことあるんですか。」と私。
 「使い方は登山屋で聞いたからと、大丈夫だ。」と中村さん。
はー、完全にイライラしてきた。
「実際には使ったことがないんですね。それじゃ松川は無理ですよ。岩井又も止めたほうがいいと思いますが・・・」と私。
「いやー、岩井又なら大丈夫でショ。」と中村さん。
おもわず切れそうになった。そこは職場の和も考えて、ぐっとこらえた。
「岩井又は難易度を5段階にすると、4の上か、5の下ですよ。私も自分のことで精一杯ですから、中村さんのことをホローするのは難しいです。本当に大丈夫ですか。」
 それでも一応上司のような人なので平静を装っていたが、半ば呆れ、半ばやけくそだった。
「本当に大丈夫だ!金目川、石滝川、カイラギ沢も途中までは遡行したから自信はある。」と、中村さんは付け加えた。
 決定打だった。そこまで言うからには、渓での中村さんは相当強いのだろう。結局、中村さんに言いくるめられた形で岩井又沢釣行を承諾した。

岩井又沢への前夜祭
 2000年は野暮用が多く、思うように渓を訪れることができなかった。今回も日程の調整がなかなかつかず、結局は義兄の法要を済ませ、その足で待ち合わせ場所に向かった。
 中村さんは待ち合わせ場所に既に着ていた。開口一番「愛車のパジェロをぶつけてきた。」とのことだった。確かに車の後部がベッコリとへこんでいた。「おやおや、相変わらずのそそっかしさだ。これでは先が思いやられる。」不安を覚えつつも、結局、中村さんの車で三面へ向かう。
中村さんの運転は安全運転は安全運転なのだが、要領が悪いというか、はっきりいうと運転が非常に下手だ。とても安心して乗っていられる状態ではなかった。途中で何度か冷や汗を流したが、何とか三面の車止めに着いた。
 時間は9時を過ぎていた。平ちゃんの顔を覗き込むと「早く飲ませろ」と書いてあった。いつもなら完全に酩酊している時間だろう。これ以上待たせるわけにはいかない。タープを張り、入渓の前夜祭に突入する。
 酒が入ると初対面の平ちゃんと中村さんも打ち解けて、なかなかいい雰囲気の宴会となった。山の話し、釣りの話しと他愛もない話題で盛り上がる。渓の遡行はチームワークだ。まして、同じ人間だけが何日も顔を合わせる。渓で大事なのは技術とかよりも、信頼関係かも知れない。「いや、酒だろう。」(平ちゃん弁)これならば楽しい岩井又沢釣行になるだろう。それでこそ有給休暇を2日間も取ってきた甲斐があるというものだ。三面の夜は酔っ払いの戯言に耳を傾けるかのように闇色を増していく。

ザックが分解した!
 頭が痛い。昨日は義兄の法要だったから、昼過ぎから飲み続けたことになる。完全に二日酔いだ。岩井又沢出合までは40分ほどのアプローチだが、今日はさすがに辛い。一向にピッチがあがらない。途中で休憩を取らなければならないほどだった。平ちゃんには呆れられてしまうし、中村さんには舐められてしまったようだ。
 それでも何とか岩井又沢出合まで着いた。川原で遅い朝食を摂る。ここから岩井又沢沿いのゼンマイ道を進む。マイタケを探しながら、ゆっくりとしたペースでF2手前の徒渉点まで着いた。
 ここで一服入れる。出発しようと中村さんがザックを担ごうとしたとき、いきなり肩バンドが切れた。ゼンマイ道を歩いている時から気になっていたのだが、中村さんのザックが異様に左に傾いていた。その時から、片バンドの損傷が始まっていたのだろう。
 中村さんは今釣行のためにザックを新調した。それがペラペラの薄手の物で、デスカウントで売っている釣り用の物だろう。当初、私の50Lザックを使う予定であったが、急遽買ってきたらしい。無理せずに私のアタックザックを使っていれば問題はなかったはずだ。若しくはどうせ買うのであれば相談さえしてもらえば、それなりの物を買わせたものを・・・。
 シュリンゲで肩バンドを縛り上げ応急的に修理をした。ついでに中の荷物を全部出させパッキングをし直す。大型のエアーマットがザックの大半を占めてしまい、片荷になっていたのだろう。もとより個人装備しか入っていないからたいした重量ではない。無理さえしなければ問題なく遡行が続けられるだろう。
 F2の巻き道を過ぎるといよいよ川通しの遡行になる。中村さんはすべって転んだり、ヘズリで落ちたりと、ケガをしないのが不思議なくらいの遡行を続けた。ヘズリの途中に淵に落ちて、流されかけている所を平ちゃんに助けられた。「大丈夫です。だいじょうぶです。ダイジョウブデス!」と、しきりに恐縮している。とにかく危なっかしい、目を離すことは出来ない。それに、人の言う事を全く聞かない。普通は何度か失敗すれば、人の注意を素直に受けるようなものだが、人間的に欠陥があるのだろうか。今頃気付いても遅いのだが、自称、金目川、石滝川を遡行した渓の猛者はただのホラ吹きだった。
 それでも何とか無事にF3下部のテン場に着いた。ここまで7時間近くかかっている。タープを張りテン場の設置を済ませる。せっかく来たのだからとテン場周辺を少し釣ってみる。平ちゃんは、早速飲みモードに突入した。中村さんと同行するよりは、そのほうが無難だと判断したのだろう。それまで完全にグロッキーだった中村さんが、釣り竿を出すと人が変わったようにテンカラを降り始めた。少し釣り遡るとすぐに通らずとなった。側壁のバンドをヘズレば行けるのだが、中村さんには無理だろう。ここで納竿とする。結局イワナの姿を見ることが出来なかった。

渓ではリーダーに従え
 イワナは釣れなかったけれど食料は大量に持ち込んである。肴には事欠かない。能天気な私もさすがに今日は頭にきた。平ちゃんなどは怒りで禄に口も利いてくれない。
 盛大に燃え上がる焚き火の彼方上には、満天の星空が広がっている。とにかく久しぶりに訪れた岩井又沢だ。楽しく過ごさなければならない。それでも明日以降のこともあるので、中村さんに諭しておく必要がある。
 平ちゃんが口火を切った。「渓ではリーダーの指示に従わなければならない。今回の場合は渓さんがリーダーだから、渓さんの指示に従わないといけない。素人は勝手に動くから危ないんだ。リーダーは経験などから最良の方法を見出す事などなど」平ちゃんが遠回しに中村さんに言い聞かせた。
 しかし、中村さんは素人とは自分のことではないと思ったらしく
「ほんと素人は危ないよね。勝手に動くから。前にクロクラ川?(福島県にあるらしいのだがはっきりしない。)に素人4人を連れて行ったとき・・・」と逆に自慢話を始める始末だ。
「違う、平ちゃんはお前のことを言ってんだよ。」思わず口に出しそうになって言葉を飲み込んだ。
私はこの時、とんでもない人を岩井又沢まで連れて来てしまったと改めて思った。

渓魚酔に救われる
 目を覚ますと、今にも泣き出しそうな鉛色の雲が空を覆っていた。当初の計画ではテン場を畑沢まで移す予定であった。しかし、中村さんの力量がはっきりした今、これ以上上流を目指すのは無謀だ。この辺りで釣りをしてお茶を濁すしかないだろう。
「天候に不安があるので、無理をせずこの辺りで釣りをすることにしますか。」朝食を摂りながら、予定変更を告げる。そうと決まれば、急ぐ必要もないだろう。平ちゃんと二人朝酒をいただく。一日飲み続けてもいい気分だが、中村さんは早々に釣り支度を整え早く出発したいようだ。
止むを得ず私も準備を整える。平ちゃんはマイタケを探しに行くという。昨日引き返した通らずを大高巻で通過した。すぐにF3に出る。ここは前回来た時に大イワナのライズを目撃した所だ。ここは中村さんにポイントを譲る。中村さんの仕掛けは6mの竿に2mほどの糸に毛鉤を付けたものだ。いわゆる毛鉤の叩き釣りである。この釣り方はポイントを的確に狙うことが出来るので、小渓流では威力を発揮する。しかし、大渓流では探れる場所が限られるのであまり向かない。それでも中村さんは腰まで水に浸かり、滝つぼを探っている。相当粘ったが、残念ながらイワナの姿を見ることは出来なかった。
 F3の左岸を小さく巻くとすぐ左岸から小沢が出合う。中村さんが小沢の落ち込みから25pほどのイワナを釣り上げた。これで中村さんも満足しただろう。「それでは私メも釣りをさせていただきますか。」と、準備をしていると上流から6名の団体が下ってきた。遠くて顔までは確認できない。タバコをふかし、彼らの近づくのを待つ。何と近づいてきたのは渓魚酔のご一行様ではないか。久しぶりの再会にしばし談笑する。「これで引き返す理由ができた。」ものすごくほっとした。渓魚酔のご一行様を見送り、少しだけ釣り遡った。「これ以上釣り上っても、渓魚酔のご一行様がバシャバシャやってきた後では釣りになりませんヨ。中村さん諦めて帰りましょう。」中村さんは釣り足りないような顔つきだが、強引に帰ることを承諾させた。
 朝、高巻いた淵に来た。また高巻くつもりはなかった。「中村さん泳げますか。」彼は無言で頷いた。確か泳ぎは達者だとも言っていた。中村さんに流れを読んで慎重に行くように注意して先に送り出した。中村さんは今にも沈みそうなクロールで何とか泳ぎきった。私は肌寒さもあり、結局は側壁をヘズッテ通過した。
 渓魚酔のご一行様のおかげで、中村さんを納得させてテン場に戻ることが出来た。時計に目をやると12時少し前だった。簡単な昼食をすませ、昼酒をいただく。平ちゃんはまだマイタケ採りから帰っていないようだ。中村さんは釣り足りないらしく、テン場周辺を探りに行ってしまった。この辺りで釣るのであれば、目を離しても大丈夫だろう。酔ったらしい、少し横になる。
 中村さんの声で目が覚めた。いつの間にか寝てしまったようだ。中村さんはにこにこ顔で買い物袋を差し出した。中には20pほどの小イワナが入っていた。わざわざ私に見せるために生かして持ってきたらしい。そこまでしなくとも・・・・私では理解できない奥の深い人のようだ。
 薄暗くなり始めた頃に、平ちゃんが戻ってきた。残念ながらマイタケの姿を見ることは出来なかったそうだ。おそらく時期的にまだ早いのだろう。
 宴会を始めるとすぐに大粒の雨が降り出した。沢は見る見るうちに濁流の泥濁りとなった。有に2mは増水しただろう。幸いテン場は高台に設置したので浸水の心配はないが、計画通り明日帰れるか分らなくなった。雨の止むことを祈るしかないだろう。今は飲むことに集中しよう。

やはりこいつは朴念仁だ
 雨が気になってよく眠れなかった。幸い雨は夜半過ぎに止んだ。薄明かりのなかで沢に目をやると、ささ濁りまだで回復していた。しばらくすれば濁りもなくなるだろう。二人はまだシュラフに包まっている。一人コーヒーを啜る。しばし、沢音と小鳥の囀りに耳を傾ける。思えば中村さんに振り回され続けた2日間だった。今日は帰るだけだ。急ぐ必要もないだろう。朝食がいつの間にか宴会になってしまった。中村さんは遠慮してか、帰路を心配してかアルコールに手を出すことはなかった。
 テン場を出たのは10時を回っていただろうか。秋の陽射しが川面を照らし始めた。沢の濁りはなくなったがまだ増水している。平水であれば楽に下降できるのだが、増水している渓の下降は慎重を要する。それに何といっても中村さんがいる。
 何でも出来る素振りをする中村さんに、意地悪心が湧いた。安全だと思われる淵で「中村さんここは泳いで下りますか。行ってみてください。」中村さんは「イエーともキエーともつかない」奇声を発した。中村さんは危険な箇所に遭遇すると奇妙な声を出す。
 相当躊躇していたが、それでも中村さんは淵に飛び込んだ。思惑通りにザックで頭が押され、水面から顔を上げることができずに溺れそうになった。平ちゃんと二人で吹き出してしまった。私達は例によって、ラッコ泳ぎでらくらく下降する。人の振り見て我が振りなおせなのだが、私たちのことは気にも留めずにどんどん下降していってしまった。そして、次の淵で泳ごうかどうしようか迷っているようだ。いつまでも意地悪をやっていられないだろう。「中村さん良く見ていてください。」私は中村さんの前でラッコ泳ぎをやってみせた。ラッコ泳ぎはそれほど難しい技術ではない、誰にでもすぐに出来る。中村さんも危なっかしい格好ながらも、何とかラッコで泳ぎきった。
 その後がまた大変だった。中村さんはやりたくて仕方がない様子だ。ちょっとした淵でも「ここ泳いで下りますか。」盛んに私たちに伺いを立てる。しかし、ラッコ泳ぎはザックに負荷が掛かり過ぎる。中村さんのザックは応急処置を施したに過ぎない。いつ分解してしまうか分らない。そのことをいくら諭しても、しばらくすると「ここ泳いで下りますか。」とまた聞いてくる。「こいつは正真正銘の朴念仁だな。」と、ただ呆れるばかりだ。
 いつの間にかF2の巻き道を通り越してしまったらしい。段丘部分までは見通せないが、側壁は容易に登れそうだ。念のために二人には下で待つように指示する。容易に登れたのは始めの10mほどで、上部は厄介な草付が続いていた。結局30mほど登ってしまった。中村さんをフリーで登らせるわけには行かない。二人には戻って巻き道を探すように指示する。
 私の登攀を待っているときも中村さんは事件を起こしていた。私の後を続いてすぐに登ろうとしたらしい。「渓さんに待っているようにいわれたのだから、OKの声が掛かるまで待っているように」と平ちゃん戒められた。しかし、一旦は諦めたようだったが、すぐにまた登ろうとしたらしい。これには、さすがの平ちゃんも相当きつく怒ったようだ。一事が万事この調子だから、私達は相当にいらついていた。三面川本流に出たときはさすがに安心した。同時に得体の知れない虚脱感が全身を襲った。
 登山道に出ると平ちゃんは異常なペースで歩き出した。私も平ちゃんのペースに歩調を合わせる。見る見るうちに中村さんは離れていった。もう待つ必要もないだろう。平ちゃんの背中は完全に怒っていた。あーあ、面白くない岩井又沢だった。
 後日、平ちゃんは私に、「人生の3日損した。渓さん返してけろ。」確かにそのとおりだ。それを言うなら、おれも人生の3日間損をした。(あづま けい)

もくじにもどる。