蔵王高速電鉄

蔵王半郷の松尾川。築堤と橋の跡が蔵王高速電鉄。

(写真:蔵王半郷の松尾川。築堤と橋の跡が蔵王高速電鉄。)

「蔵王高速電鉄線略図」(『目論見書』より)

(写真:蔵王高速電鉄線略図」(『目論見書』より))

蔵王を目指した鉄道計画は2度も頓挫している。第一次的計画は高湯電鉄として大正11年頃に立案された。植村子爵を主唱者とし、発起者は山形電気会社重役や大株主を中核に120名に及び、路線の測量もなされ、敷設請願書の提出にまで進んでいた。塚田正一山形電気社長は山形〜高湯(蔵王温泉)の電車開通で2、3倍の入湯客や行楽客を誘致し、旅館の増設改善、娯楽施設、別荘建築で高湯を開発したいと考えていたらしく、高湯地区の共有地から有償で5万坪、無償譲り渡しで5万坪の土地を得ようとした。温泉側は電鉄開通を望む弱みにつけこみ、土地の無償提供を強要するという温泉乗っ取り事件と見て問題はもつれた。さらにこの計画が植村子爵の取り巻きである秋田県の鉱山師佐藤久七氏によるものと分かってくる。彼は高湯での硫黄採掘を進めるため電鉄を計画したのであった。温泉側は硫黄採掘が温泉の環境に悪影響を与えるものと憂慮し、反対運動を展開。こうして電鉄開通、温泉開発、硫黄採掘を目的とした高湯電鉄の計画は頓挫してしまった。その後、昭和9年に高橋熊次郎氏が、再び計画したが成功しなかった。

第二次的計画は戦後のことで、堀田村出身で庄内交通重役であった荒井清蔵氏が地元資産家の板垣庸一氏らに働きかけ、彼らを発起人として蔵王高速電鉄は計画された。当初は山形県内で最も交通量の多い山形〜上山間での開業を狙ったらしいが、奥羽本線と並行するため許可が下りず、硫黄などの鉱山、林産物の開発を目的に半郷〜高湯間を加えて許可されたという。また、蔵王高速電鉄敷設の動きはライバル関係にある山形交通との摩擦も引き起こしたという。とにかく、昭和23年5月7日には運輸大臣の免許を得ることができた。第一期起業線は昭和24年1月15日から10月31日までの建設予定でルートは山形〜滝山〜下桜田〜成沢〜半郷〜中川〜上山、全長12,2km、停車場6、停留所1の計画であった。第二期起業線は着工年月日未定で、ルートは半郷〜南坂〜上野〜棚木〜塩坪〜高湯、全長13,2km、停車場5で計画された。車庫は鉄砲町に置くとされた。工事は熊谷組が請け負い、泉川(上山市)まで路線ができ、車両は日立製作所に発注された。山形市蔵王半郷の松尾川には橋と築堤の跡が残っている。

しかし昭和25年の朝鮮戦争による物価高騰で資金難となり工事は中断、電車はキャンセルされ玉野市営鉄道、高松琴平電鉄と流れることになった。そして昭和35年起業廃止届を運輸省に申請し、蔵王への鉄道はついに夢と消えた。

参考文献『目論見書』(蔵王高速電鉄株式会社創立事務所)『山形県議会八十年史 大正篇』『蔵王今昔温泉記-伊東久一覚書-』『鉄道廃線跡を歩く』(JTB)『とうほく廃線紀行』(無明舎出版)