蔵王温泉

蔵王温泉大露天風呂。酢川温泉神社。873年酢川温泉神に従五位下が授けられた。

(写真左:蔵王温泉大露天風呂。)(写真右:酢川温泉神社。873年酢川温泉神に従五位下が授けられた。)

蔵王の刈田岳山頂に祀られる刈田嶺神社。刈田岳山頂の火口湖で蔵王のシンボル「御釜」。実は宮城県。

(写真左:蔵王の刈田岳山頂に祀られる刈田嶺神社。)(写真右:刈田岳山頂の火口湖で蔵王のシンボル「御釜」。実は宮城県。)

宝沢の蔵王大権現。奥には三眼青黒色の忿怒の形相をした魔障降伏の本尊、蔵王大権現立像が祀られている。

(写真:宝沢の蔵王大権現。奥には三眼青黒色の忿怒の形相をした魔障降伏の本尊、蔵王大権現立像が祀られている。)

蔵王温泉は景行天皇の時代(110年頃)に日本武尊の東征に従った家来、吉備多賀由によって発見されたという。この「多賀由」が「高湯」になり高湯温泉と呼ばれたという。信夫高湯(吾妻高湯温泉)、白布高湯(白布温泉)とともに最上高湯や蔵王高湯と呼ばれ、三高湯の一つであった。蔵王温泉では温泉の神として酢川温泉神社が祀られている。酢川温泉神社は熊野岳山頂の蔵王山神社(708年建立)と慈覚大師が開山した瀧山と合わせて三社一宮とされる。873年には酢川温泉神に従五位下の位が授けられたという。酢川温泉神社の参道には最上義光の力石もある。1561年最上義光16歳の時、高湯に湯治に訪れ、その際に賊に襲われたが首領を斬り捨て撃退したという。この義光の武勇に感銘した父、義守は最上家に伝わる源氏重代の名刀「鬼切」(笹切)を授けたという。力石は五十貫目の石で家臣たちと力比べをした際に誰も持ち上げられなかったこの石を義光が持ち上げたとされ、義光の剛勇ぶりを伝えている。

高湯温泉が蔵王温泉と呼ばれるようになったのは昭和25年蔵王連峰が新日本観光地百選の山岳部門第一位になり、付近の地名を全て蔵王にする動きが出たため。堀田村が蔵王村になったり、熊野岳の熊野神社が蔵王山神社になったりした。古来、蔵王連峰は「わすれずの山」と呼ばれてきた。その名は南蔵王にある不忘山の呼称に残されている。蔵王の名称は680年に不忘山に蔵王権現社が建立され、690年役小角が刈田岳山頂に金剛蔵王大権現を勧請し、刈田嶺神社が祀られた事に始まる。修験道により蔵王信仰が盛んになり、この地域が蔵王と呼ばれるようになった。朱鳥八年(694年)、蔵王山の北麓、宝沢の井上太郎大夫に乙鶴という男子が生まれ、乙鶴はのちに山伏となり覚山と号した。覚山は諸国の霊地で修行し、吉野金峯山で蔵王に霊山があったと知り、中興を志して帰国した。天平年間の旱魃では祈祷して雨が降り、宝沢の地に蔵王大権現を創始した。今も花笠祭りになると宝沢の蔵王大権現が祭神として山車に乗って祭りを見守る。