湯田川温泉 |
(写真:湯田川温泉の銭湯) (写真左:隼人旅館は新徴組が本部を置いた組役所(本部)跡)(写真右:新徴組隊士の墓) |
湯田川温泉は和銅五年(712年)に発見されたという。傷ついた白鷺が湯で傷を癒したことから「鷺の湯」と呼ばれた。湯田川は出羽三山の修行の終点で精進落しの地ともされる。また湯野浜温泉、温海温泉とともに庄内三楽湯に数えられる。温泉街の中心には瓦屋根の共同浴場「正面湯」があり奥には梅林公園がある。名物として孟宗竹が生産され作家の藤沢周平や庄内藩主も好んでこの地を訪れたという。 この地には「新徴組」に関わる話もある。新徴組は幕末に清河八郎の策謀で生まれた浪士組の後身で京都に残り会津藩預りとして京都の取締りを行ったのが新選組、江戸に戻り庄内藩預りで江戸の取締りを行ったのが新徴組である。新徴組はその後庄内に移ることになり湯田川温泉の宿で二年ほど暮らした。隼人旅館が新徴組本部(組役所)とされた。新徴組は戊辰戦争でも庄内藩とともに果敢に戦った。戦後は松ヶ岡開墾などにも従事したが苦しい開墾の生活に次々と離脱し、新徴組隊士は三戸のみ残ったという。湯田川の長福寺にはここで亡くなった新徴組隊士と家族の墓も残されている。 |