湯殿山

湯殿山神社の大鳥居。ちなみに本宮域内は撮影禁止のため御神体はNG。御自身で御覧になってください。湯殿山に奉納された即身仏の模擬像。

(写真左:湯殿山神社の大鳥居。ちなみに本宮域内は撮影禁止のため御神体はNG。御自身で御覧になってください。)

(写真右:湯殿山に奉納された即身仏の模擬像。)

湯殿山は月山、羽黒山と並び出羽三山の一つに数えられる。月山、羽黒山同様に蜂子皇子によって開山されたと伝わる。だが本来の出羽三山は月山、羽黒山、葉山の三つで湯殿山は三山の総奥の院であった。それが寒河江の慈恩寺との関係で葉山が修験の道場から離脱し、代わりに湯殿山を三山に数えるようになったらしい。湯殿山は引き続き奥の院的な性格を持ち続け、各登山口は奥の院たる湯殿山に至るというものだった。湯殿山の場合は他と違って御神体が山ではなく湯の噴出する巨大な岩であり温泉の神ともされる。神域内のことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と信仰上の秘密とされたため、ますます神秘性を持ったのであろう。現在でも本宮神域内は写真撮影を禁じている。松尾芭蕉も当地を訪れて次のように詠んでいる。

「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」

一三九五年、湯殿山別当の一つ大井沢大日寺の道智上人が米沢・長井から山を越えて大井沢、志津を経由して湯殿山に至る道智通りを開削するとその信仰は米沢・会津を経て関東にまで拡大したという。ほかの湯殿山別当四カ寺である本道寺、大日坊、注連寺も勢力拡大に努めたため全国に湯殿山の信徒網が広がり、各地に湯殿山の供養碑が建てられるに至った。江戸時代には六十里越街道の整備もあって各登拝口は行者で賑わい、四カ寺の努力で全国に拡大した湯殿山信仰のおかげで三山詣よりも湯殿山のみを詣でるケースが多くなった。また江戸時代になると出羽三山信仰の中心である羽黒山は幕府の黒衣の宰相天海に通じて天台宗に改宗し、真言宗である湯殿山別当四カ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)は蜂子皇子でなく湯殿山の弘法大師による開山を唱えるなど対立を深め、湯殿山の祭祀をめぐって争うまでになった。だが明治なると神仏分離令によって出羽三山信仰も湯殿山信仰も一気に衰退し、本道寺や大日寺は消滅してしまう。湯殿山も湯殿山神社として仏教色を排して存続することになった。また湯殿山は即身仏修行の霊地であり、庄内には衆生を救うために修行の末に即身仏(ミイラ)となった上人が6名いる。湯殿山の入口にはこの紹介と即身仏の模擬像もある。