米沢街道

米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。赤湯吉野川にかかる花台橋の袂にある一里塚の松。

(写真左:米沢藩内街道の一里塚の基点になった米沢大町札の辻。)

(写真右:赤湯吉野川にかかる花台橋の袂にある一里塚の松。)

掛入石。関ヶ原合戦の際、上杉軍と最上軍の戦場となって岩陰に伏兵を置いたことから「隠れ石」とも呼ばれた。江戸時代には掛入石を境に南は米沢領、北は山形領となり、越境を図る者が隠れるために「掛け入った」巨石。戊辰戦争でも戦場になった。1896年、奥羽線の工事により一部が割られてしまった。上山三本松の追分板碑。米沢街道と羽州街道の合流点

(写真左:掛入石。1896年、奥羽線の工事により一部が割られてしまった。)

(写真右:上山三本松の追分板碑。米沢街道と羽州街道の合流点。)

三島通庸による中川の眼鏡橋「吉田橋」三島通庸による中山の眼鏡橋「中山橋」

(写真左:三島通庸による中川の眼鏡橋)(写真右:「吉田橋」三島通庸による中山の眼鏡橋「中山橋」)

川口の「堅磐橋」は三島県令による石造二連アーチの眼鏡橋

(写真:川口の「堅磐橋」は三島県令による石造二連アーチの眼鏡橋)

直江兼続は領内の街道整備に努めた。1604年、兼続は米沢大町札辻を基点に藩内の主要街道に一里塚を設置させている。「大町札の辻」は米沢城大手門に通じる重要な十字路でもあり、目立つ場所のため藩や幕府の命令が掲げられた高札場が設置されたため「札の辻」と呼ばれた。幕府や藩の権威を示したが明治七年廃止された。米沢街道は米沢から赤湯に向かって真っ直ぐ北上して鳥上坂経由で川樋に抜け、上山山形方面に向かう重要な道である。米沢街道が赤湯に入る手前、吉野川にかかる橋の袂に「一里塚の松」が今も残る。兼続が街道整備を行う以前、伊達氏時代は米沢から夏刈、鍋田を経由して玉坂峠から川樋へ抜けるルートであった。当時は夏刈に資福寺があり伊達氏にとって重要な拠点だった。また吉野川は天正六年の水害で現在の流路に変わったが、これ以前は蒲生田から萩生田、宮崎を経て松川に注いでおり、今も沖郷に残る貯水池や上無川が旧吉野川の名残という。そのため夏刈から吉野川を渡らず北上し、玉坂峠から川樋に抜けられた。水害の影響もあったろうが、兼続の街道整備が行われたことで現在の置賜の交通網の基礎が出来上がった。赤湯を通過すると右手に白龍湖を望みながら鳥上坂を上って川樋に抜ける。ここからは前川沿いに北上し、中山城下を通過して「掛入石」に至る。「掛入石」を境に南は米沢領、北は山形領となり、越境を図る者が隠れるために「掛け入った」巨石という。境界のため度々戦場となって岩陰に伏兵を置いたことから「隠れ石」とも呼ばれた。上山市街地の南、三本松には「ト」の字型の分かれ道がある。米沢街道と羽州街道の合流点で「元禄四年追分板碑」がたっている。本来は供養碑であるが、道標として用いられ、板碑に「右ハよ年さわ」「左ハ江とみち」と刻まれている(※右は米沢(米沢街道)左は江戸道(羽州街道))。上山からきた場合、ここでまっすぐ南下すると米沢街道、左に進み南東に向かうと羽州街道ということになる。なお板碑の石は阿弥陀地村の角力である七夕が背負ってきたものとされる。

のちに山形県令三島通庸は米沢街道の整備に取り組み、橋の架け替えなどを行った。明治十三年に南陽市中川の前川に架けられた吉田橋は眼鏡橋である。また上山市中山の前川には明治十三年にアーチ式の眼鏡橋「中山橋」が造られた。この橋は今も中山集落内に残り「奈可やまはし」と陰刻されている。上山市川口にも明治十一年、前川に地元の凝灰岩で二連のアーチを持つ眼鏡橋「堅磐橋」が造られた。