山野辺城

山野辺城址。山辺小学校にあたる。

(写真:山野辺城址。山辺小学校にあたる。)

山野辺城址は山辺小学校の南の一角にある。山野辺台地に山野辺城を築いた山野辺刑部は永正十一年(1514年)置賜の伊達稙宗が山形城の最上義定を攻めた時、最上軍の先遣隊として長谷堂に出陣したが戦死した。最上義定は長谷堂の敗北で伊達稙宗に屈服した。最上義定は既に山野辺刑部の子山野辺直広の娘を妻にしていたが、和議のため伊達稙宗の妹を妻にすることになった。1520年義定が没すると最上家は伊達稙宗の傀儡となったが、これに納得しない上山義房や天童頼長など最上一族は伊達氏に激しく抵抗した。このため伊達稙宗は最上一族から僅か2歳の中野義守を最上家当主に選び、実質的に最上家を支配することにした。その際、最上義定と先妻山野辺氏との間に子があったが、伊達稙宗によって家督相続から排除されたともいわれる。その後は日野備中が城主となったというが1600年の慶長出羽合戦で直江兼続率いる上杉軍の猛攻にあって山野辺城は落城した。戦後の1601年、最上義光は四男の義忠に山野辺氏を継がせ、山野辺城主として一万九千石を預けた。山野辺義忠は山野辺城と城下町の整備に力を入れた。義忠は山野辺で業績を挙げ、その能力から宗家に代わって最上家を継ぐことを期待された。1614年最上義光の没後、家督を継いだ次男家親が三男の清水義親を攻め滅ぼした。同年庄内では一栗兵部の乱が起こった。1617年には家親が急死。家親の嫡男家信(のち義俊)が13歳で跡を継ぐが、これに不満な楯岡光直や鮭延秀綱は山野辺義忠を最上家の当主に推した。一方、家親の急死は楯岡光直による毒殺だと義光の甥、松根光広が幕府に訴えた。これが最上家臣団の分裂に繋がり、1622年幕府は最上家を改易とし、山野辺城も破壊された。山野辺義忠は岡山池田家に預けられた後、水戸徳川頼房の家老となり一万石を領した。義忠は徳川光圀の教育係ををつとめ、1661年光圀の藩主就任を見届け、1663年隠居し、翌年没した。文政六年(1823年)白河藩阿部氏が出羽の飛び地支配のため、山野辺城二の丸跡に陣屋を置いた。