山形城

山辺町

山形城下
     

最寄駅「山形」

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山形城に立つ出羽の驍将、最上義光の像。1600年撤退する上杉軍を富神山に追撃した時の姿という。山形城内に保存されている「旧済生館本館」。現在は山形市郷土館として使用されている。
山形城内の桜並木の下を歩いてゆく。山形城のお堀に出張っている桜。
復元された山形城の大手門現在、山形城本丸を復元中。
「霞城の桜」。最上義光が白鳥十郎を謀殺した際に白鳥の血で染まったという「血染めの桜」と同種で当時から残っているもの。「霞城の桜」のアップ。この桜は最上義光の残酷な謀略を見ていたのか。
山形駅西口にできた高層ビル「霞城セントラル」霞城セントラルから見下ろした霞城公園(山形城)
山形市街の表玄関、山形駅東口。市街地のど真ん中、ビルの狭間に残る山形城三の丸の土塁。
第二公園には蒸気機関車が保存されている。奥羽本線で活躍した8620型。
別名を霞ヶ城ともいう山形城の築城は南北朝時代の1357年最上氏の祖、斯波兼頼によるという。斯波氏は足利一族で斯波家兼が奥州探題となり、その子孫が大崎氏を称している。兼頼は家兼の次男で1356年北朝方として山形に入り、翌年山形城の縄張りを行ったという。以来、兼頼の子孫は最上氏を称し、山形を中心に一族が分かれていった。しかし戦国時代にはこれら一族が宗家である最上氏に反抗し、また置賜から伊達氏が侵入し、最上氏の権威は無きに等しかった。この最上氏の力を高め、出羽の統一を目指したのが最上義光である。義光は父や弟、一族と戦い、最上氏の統一を図り、また謀略を駆使しながら敵対勢力を抹殺していった。有名なのは谷地城主白鳥十郎長久を嫡男義康と白鳥の娘の縁談の話と自分が病であるから後のことを頼みたいという話で山形城に誘き寄せ、床に臥せって油断させたところを襲い、城内の桜の下で討ち取った。この桜は白鳥の血を浴び「血染めの桜」と呼ばれたという。最上義光は1600年関ヶ原の戦いに際して、西軍上杉景勝の攻撃を受けたが辛くも守りきり、加増を受けて五十七万石の大名となった。義光は山形城と城下町を整備し、山形は大いに繁栄したが、1622年家臣の争いにより、最上氏は改易となり、以後は小藩として鳥居・保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野の諸氏が山形城に居城した。
明治以後は連隊の駐屯地となったりしたが、現在は霞城公園として整備され、県立博物館や体育館、野球場等各種施設が置かれている。霞城公園は「血染めの桜」に由来してか桜の名所で、春には多くの桜が咲き誇る。山形城の西側土手には「霞城の桜」と呼ばれるエドヒガンザクラがあり、これこそが最上義光が白鳥十郎を謀殺した話の「血染めの桜」と同種でその当時から残っている桜という。山形歩兵第三十二連隊歌にも「霞城に咲き誇る血染めの桜仰ぎ見よ」と歌われている。霞城公園内の建物のうち、山形市郷土館の建物は「旧済生館本館」である。済生館は明治11年に建築された山形県公立病院で三条実美が「済生館」と命名した。明治13年『山形県下名所図絵』にも錦絵で描かれ、全面改築の際にも文化財としての価値を認められ、重要文化財となり現在地に移転されている。現在は霞城公園の中央部で本丸の石垣復元工事を行っており、昔日の威容が復活するらしい。
山形駅のある場所はかつての山形城三の丸の敷地にあたる。現在残る霞城公園こと山形城は二の丸である。現在、山形駅西口には高層ビル「霞城セントラル」が建ち、最上階から山形城址が見下ろせる。表玄関である東口から駅前大通りを東に向かって歩いてゆくと道路の北側、宝くじ売り場隣の歌懸稲荷の陰に山形城三の丸の土塁が残されている。堀跡が窪みになっており、市街地のビルの谷間にひっそりと埋もれている。
歌懸稲荷の駅前通りを挟んで南側にある第二公園には蒸気機関車が保存してある。このSL8620型は大正12年日立製作所笠戸工場で造られた国産では初の旅客列車用形式とされます。この車両は製造と同時に奥羽本線に配属され、奥羽本線及び支線の輸送に活躍した。昭和44年廃車となり、国鉄から山形市に管理を移され、第二公園に永久保存されることとなった。

 

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