山形城

復元された山形城の大手門復元中の山形城本丸

(写真左:復元された山形城の大手門。)(写真右:復元中の山形城本丸。)

山形城の築城は南北朝時代の1357年最上氏の祖、斯波兼頼によるという。斯波氏は足利泰氏の長男家氏の子孫で本来なら嫡流となるべき家柄だった。そのため南北朝期まで尾張足利氏を称した。南北朝期には斯波一族は新田義貞や北畠顕家と激戦を繰り広げ、1338年越前藤島の戦いで新田義貞を討ち取った。この際、義貞を討ち取ったのが斯波兼頼である。新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした際、源氏重代の名刀「鬼切」を入手した。義貞を倒した兼頼は「鬼切」の継承者となり、以後その子孫である最上氏に伝わることとなった。1354年兼頼の父斯波家兼が奥州管領となり、長男直持の子孫が大崎氏を称して奥州探題職を継承している。兼頼は次男で1356年北朝方として山形に入り、翌年山形城の縄張りを行ったという。山形周辺は最上郷と呼ばれたため、兼頼の子孫は最上氏を称して羽州探題職を継承。山形を中心に一族が分かれていった。また最上氏は山形城を居城としたため「山形殿」とも呼ばれた。斯波兼頼は山形に入る際、天童の成生荘に勢力を持っていた里見氏に弟義宗を養子に入れ、さらに兼頼の孫、頼直が里見氏を継いで事実上里見氏は最上氏の支族となったが、里見氏は南朝の北畠氏を追った後の天童城に入り天童氏を称する。さらに天童氏から上山氏、東根氏が分かれた。戦国時代になるとこれら一族が勢力を持って宗家である最上氏に反抗した。1514年最上義定は長谷堂の戦いで伊達稙宗に敗れ、稙宗の妹を妻に迎えることで和睦した。1520年義定没後、伊達稙宗はわずか2歳の最上一族中野義守を跡継ぎに据えて介入を続け、もはや最上氏の権威は無きに等しかった。1542年伊達稙宗と晴宗の父子が争い、奥羽を巻き込む「天文の乱」が勃発した。最上義守はこれを機に伊達の支配から脱却したが、まだ最上一族をまとめるにも至らなかった。

山形城に立つ出羽の驍将、最上義光の像。1600年撤退する上杉軍を富神山に追撃した時の姿という。

(写真:山形城の最上義光像。慶長出羽合戦で撤退する直江兼続を追撃した時の姿。)

この状況を打破して出羽の統一を目指したのが義守の嫡男最上義光である。義光は智勇兼備の名将で若い頃に賊を返り討ちにし、父から名刀「鬼切」を授けられるほどだった。だが家督相続にあたり父義守と対立し、重臣氏家定直の仲介によって1571年家督相続に至った。だが家督相続後も不満を持つ父との対立が続き、1574年天童氏や上山氏など義光による出羽統一を嫌う勢力や妹義姫の夫で再び最上氏への介入を狙う伊達輝宗が義守に味方し、「天正最上の乱」が勃発。義光は激戦の末、和議に持ち込んで乱を終わらせたが、これ以後、義光は領国統一の必要性を痛感して手段を選ばない出羽統一戦を展開する。1578年伊達輝宗と上山満兼の連合軍を柏木山で撃破し、1580年里見民部を内応させて上山満兼を殺害させる。1581年には謀略で真室川の鮭延秀綱を降伏させ、1583年庄内の大宝寺義氏を内応した東禅寺義長に殺害させ、1584年谷地の白鳥長久を義光危篤と偽って山形城に誘き寄せて殺害し、寒河江の大江高基を攻撃して自刃に追い込んだ。同年延沢満延を寝返らせて天童頼久を破り、天童氏を伊達氏のもとに追いやった。1587年には庄内を攻めて大宝寺義氏の弟義興を滅ぼした。義光の戦い方の特徴は謀略、内応、暗殺の多用で一般に評判が悪い一因だが、実際は義光自身は領民想いで将兵を大切にし、寛容な性格だったといい、無駄な戦いを避けるため謀略を用い、敵の配下も進んで義光に従ったという。1588年伊達政宗と大崎義隆の戦いに介入し、政宗と戦っているうちに上杉家臣の本荘繁長と大宝寺義勝が庄内奪還を目指して庄内の最上軍を攻撃。十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内は豊臣秀吉によって上杉領とされた。

山形城の桜。最上義光が白鳥十郎長久を謀殺した際に白鳥の血で染まったという「血染めの桜」と同種の桜。霞城セントラルから見下ろした霞城公園(山形城)

(写真左:山形城の桜。最上義光が白鳥十郎長久を謀殺した際に白鳥の血で染まったという「血染めの桜」と同種の桜。)

(写真右:霞城セントラルから見下ろした霞城公園(山形城)。)

最上義光は1600年関ヶ原の戦いに伴い勃発した「慶長出羽合戦」で上杉家臣直江兼続の攻撃を受ける。畑谷城など多数の支城が落城して窮地に陥るが、長谷堂城の戦いで持久戦に持ち込み、伊達政宗の援軍なども受け、直江兼続を撤退させた。この際、直江兼続が山形城の直接攻撃を狙い、富神山の頂から山形城を望んだが霞に覆われて確認できず攻撃を断念したという。この話から山形城は別名「霞ヶ城」と呼ばれるようになった。上杉軍を奥羽に釘付けにした功績により、徳川家康から加増を受けて最上義光は五十七万石の大大名となり、念願の庄内地方を領有するに至った。戦後、義光は山形城を東北最大の平城に改修し、城下町を整備した。だが1614年最上義光の死後、跡を継いだ次男家親と三男義親が徳川と豊臣の争いに伴って義親の謀反に至るなど騒動が続き、1617年家親が謎の急死を遂げると跡を継いだ家親の子家信がわずか13歳だったため最上家臣団が義光の四男義忠を推し、最上家中は激しい対立で混乱した。このため1622年最上氏は改易となった。以後、山形は小藩となり、鳥居・保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野の諸氏が山形城に居城した。

明治以後、山形城は連隊の駐屯地となったりしたが、現在は山形城二の丸跡が霞城公園として整備され、県立博物館など各種施設が置かれている。また大手門が復元され、その東側に「最上義光歴史館」があるので最上義光について詳細を知りたい方にお勧めの場所である。直江兼続との戦いで銃撃を受けた義光の兜や連歌の名手だった義光の詠んだ連歌集などを所蔵する。霞城公園は桜の名所で、春には数多くの桜が咲き誇る。山形城の西側土手には「霞城の桜」と呼ばれるエドヒガンザクラがあり、最上義光が白鳥十郎長久を謀殺した際に白鳥の血を浴びたという「血染めの桜」と同種であるという。山形歩兵第三十二連隊歌にも「霞城に咲き誇る血染めの桜仰ぎ見よ」と歌われている。市内の歌懸稲荷の裏に山形城三の丸の土塁も残されている。現在は霞城公園の中央部で本丸の石垣復元工事を行っており、昔日の威容が復活するらしい。

山形城内に保存されている「旧済生館本館」。現在は山形市郷土館として使用されている。

(写真:山形城内に保存されている「旧済生館本館」。現在は山形市郷土館として使用されている。)

霞城公園内の建物のうち、山形市郷土館の建物は「旧済生館本館」である。済生館は明治11年に建築された山形県公立病院で三条実美が「済生館」と命名した。明治13年『山形県下名所図絵』にも錦絵で描かれ、全面改築の際にも文化財としての価値を認められ、重要文化財となり現在地に移転されている。