山寺

開山堂と納経堂。岩の上の納経堂の下には慈覚大師の入定窟がある。山寺を見上げる。

(写真左:開山堂と納経堂。岩の上の納経堂の下には慈覚大師の入定窟がある。)(写真右:山寺を見上げる。)

宝珠山立石寺は一般的に「山寺」と呼ばれ、山形県内有数の観光地である。860年最澄の弟子円仁(慈覚大師)が当地を訪れ、開山したという。円仁(慈覚大師)は他にも近隣の瀧山、岩谷など開山したとされている。しかし860年より前に円仁の弟子たちが先んじて寺院を開いていたという。864年円仁は納経堂の下にある霊窟に入定したという。山寺は鎌倉幕府により禅宗となったが、斯波兼頼が山形を統治すると天台宗に戻った。南北朝時代は当初南朝に属したが、南朝方の敗北で北朝となる。戦国時代には伊達稙宗が妹を最上義定の妻に送り込み、1520年義定が没すると妹を介して最上氏を支配した。これを嫌った最上一族の天童頼長が伊達氏と戦ったが、山寺は伊達氏に味方したため、1521年天童頼長が山寺を焼き討ちして一山炎上させた。その後、伊達氏は最上義守を新たな当主とし、1543年最上義守により山寺は再建された。再建の際に比叡山延暦寺から法灯を分灯されたが、のちに1571年織田信長の比叡山焼き討ちで延暦寺の法灯が絶えた際、逆に山寺から延暦寺に分灯された。1559年義守の嫡男、最上義光は父と対立し、家督相続ができるように山寺に祈願した。後に義光は天正最上の乱で父義守と戦い、最上家を相続している。1599年義光は山寺の納経堂を再建している。没後は山寺に最上義光の御霊屋が設けられた。江戸時代には信仰の広がりとともに景勝地としても有名になり、1689年には松尾芭蕉が訪れて句を残している。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

山寺の芭蕉と曾良の像。せみ塚。松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句をしたためた短冊を埋めたという。

(写真左:山寺の芭蕉と曾良の像。)

(写真右:せみ塚。松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句をしたためた短冊を埋めたという。)