谷地軌道

河北中央公園の案内板にはかつての谷地軌道の姿が写っている。谷地軌道の起点だった神町駅。

(写真左:河北中央公園の案内板にはかつての谷地軌道の姿が写っている。)

(写真右:谷地軌道の起点だった神町駅。)

河北中央公園の「いもこ列車」は夏場の数ヶ月間、月に一度、車庫から出されて一般公開運転されている。(写真は8月15日の公開運転)河北中央公園内の車両。

(写真左:河北中央公園の「いもこ列車」は夏場の数ヶ月間、月に一度、車庫から出されて一般公開運転されている。)

(写真右:河北中央公園内の車両。)

谷地軌道は地域経済の振興を目的に谷地の事業家升川勝作氏が、大正4年に「谷地軌道株式会社」を設立したことに始まる。大正5年1月27日に開通(開通式は5月14日)して、山形県初の私鉄となった。資本金は30万円でルートは神町〜羽入〜藤助新田〜谷地であった。特徴的だったのは危険な火の粉を防ぐため、煙突に覆いをしたことで、里芋の様な形となり「いもこ列車」と呼ばれるようになった。また、寒河江市白岩への延長計画があり、やはり大正5年に免許を取得している。ところが当時計画されていた左沢線の寒河江〜左沢間のルートをめぐって対立が起きた。当初、寒河江〜左沢間は最短距離で結ぶ計画であった。しかし、地元の熱望を受けたとして知事や代議士が尽力して、羽前高松へ迂回するルートに決定したのである。この背後には高松地区の財閥や寒河江川沿岸の人々を自陣営に誘い込もうとする政友会の暗躍があったという。これに対し、高松に近い白岩への延長を目指す谷地軌道の関係者は反対運動を起こし、上京して陳情を行った。この反対運動に対して、当時の識者が反論して次のような趣旨のことを述べた。
@左沢線は寒河江で分岐して一つは左沢、一つは谷地に伸びる予定で高松迂回は谷地に利害関係を与えるものではない。
A高松迂回は官民等しく要望するところ。反対運動の結果、寒河江〜谷地の予定線が削除されたら谷地は百年の計を誤る。
B谷地軌道の白岩延長への期待があるが、谷地は素通りになるだけで、大した利潤をもたらさない。
C左沢線が寒河江に延長されたら白岩の物資は寒河江から山形に直行するだろう。谷地軌道利用者に果たして勝算があるか。
D左沢にも反対運動を呼びかけているが、左沢に高松迂回反対の理由はなく、かえって白岩・谷地方面へ行くのに便利になる。
こうした経緯の中、左沢線は大正11年4月23日全線開通した。大正12年には谷地軌道の谷地〜白岩間の免許も失効し延長できなくなる。また、左沢線から分岐する予定の寒河江〜谷地〜楯岡の鉄道路線も建設されなかった。その間村山電気鉄道なる会社が寒河江〜谷地間の免許を取得したようであるが、これも建設されないまま、昭和2年に失効したようである。結局昭和10年10月1日をもって谷地軌道は廃止された。
河北青年会議所により「いもこ列車」が再現され、河北中央公園にて時々一般公開されている。
参考文献『山形県議会八十年史 大正篇』『鉄道未成線を歩く私鉄編』(JTB)『鉄道廃線跡を歩く』(JTB)「河北中央公園のいもこ列車説明板」