谷地城 |
(写真左:三社宮には谷地城本丸跡の碑がある。ここは谷地城本丸の北東隅にあたる。) (写真右:東林寺にある白鳥十郎長久の墓。) |
河北町谷地の谷地城はもともと中条氏の居城であったが、六代目の中条長昌は子が無く、白鳥城(村山市)の白鳥十郎長久に城を譲ったのだという。白鳥の谷地進出は永禄年間とされている。白鳥十郎は谷地城下の整備を行い、天正二年(1574年)には最上義守・義光父子の内紛を仲介し、伊達輝宗に働きかけるなどした。また天正五年(1577年)には天下布武を目指す織田信長に使者を送り、名馬「白雲雀」を献上するなど優れた外交能力で着々と影響力を拡大していった。だが最上川以西に影響力を持ち、尚且つ中央とのパイプを持ち、諸大名の仲介まで行う白鳥十郎の存在は、山形城主最上義光にしてみれば己の出羽統一の障害であった。義光はまず嫡男の最上義康と白鳥の娘の縁組を持ちかけて姻戚関係を結ぶことで直接対決を避け、機会を待った。義光は天正十二年(1584年)病と称して白鳥を山形城に誘い出し、見舞いに訪れた白鳥十郎を斬殺したのである。義光の謀略により主を失った谷地城は直ちに攻め込まれ三日間の攻防戦の末、落城。以後三十八年間、谷地城は最上義光に支配される。1600年の慶長出羽合戦では上杉家重臣直江兼続の命を受けた庄内の上杉軍が谷地城を攻略している。その後、谷地城は最上家の改易に伴い、廃城となった。現在は谷地の三社宮に本丸の土塁跡が残る。三社宮の場所は谷地城の北東隅、鬼門であり、災難除けのために熊野三所権現が祀られていた。最上義光に謀殺された白鳥十郎長久の墓は三社宮の東南に建っている東林寺にある。 |