谷地八幡宮

白鳥十郎によって谷地に遷座された谷地八幡宮。例大祭で林家舞楽が奉納される石舞台。

(写真左:白鳥十郎によって谷地に遷座された谷地八幡宮。)(写真右:例大祭で林家舞楽が奉納される石舞台。)

月山鍛冶を顕彰する石碑。

(写真:月山鍛冶を顕彰する石碑。)

谷地八幡宮は後三年の役で源義家が戦勝の神として勧請し、白鳥(村山市)に奉じたのが始まりという。当地の豪族、白鳥氏がこれを信奉したが、戦国時代になり永禄から天正年間に白鳥十郎長久が谷地に勢力を拡大した際に谷地に遷座されている。その後、白鳥十郎長久は織田信長に使者を遣わすなど山形城の最上義光に対抗する力を持っていたが、これを恐れた最上義光によって白鳥は山形城に誘き寄せられ、謀殺された。

谷地八幡宮は現在も地域の信仰を集め、9月の例大祭「谷地どんが祭り」では境内の石舞台において伝統の林家舞楽が奉納される。林家舞楽は宮中舞楽、四天王寺舞楽、南都楽所舞楽と並ぶ四大舞楽の一つで、もとは大阪四天王寺の楽家の一族だったという。貞観二年(860年)慈覚大師の山寺開創の際に林家が随従して舞楽を奉じ、のちに室町時代になると慈恩寺、そして江戸時代には谷地八幡宮にも舞楽を奉じるようになった。「陵王」(中国南北朝時代、北斉の皇族蘭陵王高長恭の活躍)など十一番が伝承されている。

境内には月山鍛冶を顕彰する碑も建っている。月山鍛冶は鎌倉初期の鬼王丸を祖とするもので、出羽の霊峰月山の周辺、谷地や寒河江で繁栄した。室町時代に特に盛んで、永正から天正年間までの月山銘の刀剣が残されている。その特徴である綾杉肌は常陸や越後、遠くは薩摩の刀工にまで影響を与えている。