大沼浮島稲荷神社

浮島稲荷神社。708年創始の歴史がある。烏鵲(かささぎ)橋は相愛の男女が橋を渡ると縁が結ばれるという。

(写真左:浮島稲荷神社。708年創始の歴史がある。)

(写真右:烏鵲(かささぎ)橋は相愛の男女が橋を渡ると縁が結ばれるという。)

大沼の浮島は大正十四年に名勝に指定された。奥に芭蕉塚が見える。大沼の浮島は680年に修験道で知られる役小角に発見され神秘的な様から霊地として発展した。

(写真左:大沼の浮島は大正十四年に名勝に指定された。奥に芭蕉塚が見える。)

(写真右:大沼の浮島は680年に修験道で知られる役小角に発見され神秘的な様から霊地として発展した。)

朝日町にある大沼の浮島は白鳳九年(680年)に山岳修験の祖、役小角によって発見されたという。和銅元年(708年)に弟子の覚道がこの地に祠を建て開山され、その後天平二年に現在の浮島稲荷神社の場所に祠が移り、朝日修験道の入口として発展した。建久四年(1193年)には当地の地頭となった大江広元が源頼朝に勧めて祈願所として社殿を建てた。その後は大江氏が浮島稲荷神社を代々の祈願所として保護したが、大江氏が山形城主最上義光に滅ぼされると新領主の最上氏が祈願所として浮島稲荷を保護するようになる。文禄四年(1595年)豊臣秀次に謀反の嫌疑がかけられると娘の駒姫を秀次の側室に出していた最上義光は謀反の協力者として豊臣秀吉に疑われた。義光の息子義康と家親は義光の無事を願って浮島稲荷に立願状を納めている。慶長五年(1600年)には関ヶ原の合戦前に上杉景勝が朝日岳周辺に間道を切り開き置賜と庄内の連絡路をつくって山形城を挟み撃ちにしようとしているのを最上義光に報告して安堵状を授かっている。その後も最上氏との結びつきは強く1621年には義光の孫、最上家信(義俊)が社殿前に石灯籠を寄進したりしているが最上氏は家臣の内紛により改易の憂き目に遭う。だが三代将軍徳川家光もまた浮島稲荷神社を保護し、社領を与え国家の祈願所として社殿に三葉葵の社紋を付けることを許したのである。なお浮島稲荷神社は海上安全、祈願成就の神として特に東北の漁民の信仰を集めた。浮島のある沼は狐形で周囲765m、水深3m。湖上に大小60余りの島があり大きいものは3.6m、小さいものは30cm。中央の動かない島は葦原島と呼ばれる。浮遊する島の動きによって吉凶を占ったともいう。この島々が浮遊する神秘から大正十四年に「大沼の浮島」として国の名勝に指定された。湖畔には幾つか名所もあり「烏鵲(かささぎ)橋」は七夕の夜牽牛星と織姫星が年に一度会うためにかささぎが翼を並べて天の川を渡した故事から名付けられ相愛の男女が橋を渡ると縁が結ばれるという。