鶴岡城

鶴岡城本丸に建つ荘内神社大正天皇即位を記念して建てられた大寶館

(写真左:鶴岡城本丸に建つ荘内神社)(写真右:大正天皇即位を記念して建てられた大寶館)

鶴岡城(鶴ヶ岡城)は庄内平野の中心に位置する平城である。もともと大宝寺城と称し、築城は戦国時代以前とされるがはっきりしない。築いたのは大泉荘の地頭武藤氏という。当地は大宝寺、または大梵字と呼ばれていたことから当地の武藤氏は大宝寺氏と称していた。だが最上川以北に勢力を持つ砂越氏の攻撃と赤川の流路が変わったことで天文年間、武藤氏は本拠を西の尾浦城に移した。その後の大宝寺城は支城として存続した。上杉景勝が庄内を領有するようになると重臣直江兼続が大宝寺城を重視して修復させた。関ヶ原の戦いの後、最上義光が庄内を領有すると1603年酒田に巨大亀が上陸したのを吉事として酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改称させた。この三つの城を庄内の拠点として重要視していたことが分かる。さらに義光は鶴岡城を自分自身の隠居城として整備を命令、山形城から移る予定があったらしい。だが1614年義光が亡くなると次男家親が跡を継いだが、三男の清水義親はこれに不満を持ち豊臣方に内通した。さらに清水派の一栗兵部が鶴岡城内で亀ヶ崎城主志村伊豆守光清と大山城主下対馬守吉忠を殺害し、羽黒町添川に逃げたものの鶴岡城代新関因幡守久正によって討伐されるという変事が起きた。清水義親は家親に滅ぼされたが、その家親も1617年に急死した。家親の子、義俊が僅か13歳で跡を継いだが、これに不満を持つ重臣楯岡光直や鮭延秀綱らは義光の四男義忠を当主に推した。これに対し、義光の甥松根光広は家親の急死を楯岡光直による毒殺と幕府に訴えた。結局、この訴えは事実無根と退けられたが、家臣団の対立は収まらなかったため、1622年ついに最上家は改易された。改易後、庄内には徳川四天王酒井忠次の孫で譜代の酒井忠勝が入り、以後江戸時代を通じてこの酒井家庄内藩が統治した。忠勝は居城を定める際、港町として栄えていた酒田の亀ヶ崎城を選ばず、あえて鶴ヶ岡城を選んだ。鶴岡の衰退を防ぐためと商人文化とは一線を画した武士の質実剛健さを保つためだったという。老中水野忠邦による天保の改革では「三方領地替」を命じられ、庄内藩酒井家は越後長岡に転封させられることになったが領民による大規模な嘆願運動でこれは白紙撤回された。幕末には庄内から清河八郎が世に出て活躍したが、清河がその策謀のため作り出した浪士組の後身のうち会津藩預りで京都を警護した「新選組」に対し、庄内藩預りで江戸を警護した「新徴組」もあった。庄内藩は佐幕の雄であり、倒幕派からは会津と並ぶ仇敵と看做された。こうして庄内藩は朝敵とされるが天童、山形、新庄、秋田の諸藩を相手に戦い、奥羽越列藩同盟が結成されるとその中心となって奥羽諸藩が降服する中、最後まで新政府軍と戦った。戦後、厳罰を下されてもおかしくない中で鶴岡に入城した西郷隆盛は寛大な処置を施した。これ以降庄内では西郷隆盛の人柄を敬慕するようになったという。現在、鶴岡城は鶴岡公園として整備され市民の憩いの場となっている。公園内には本丸址に荘内神社、他に大正天皇即位を記念して建てられた大寶館、文人高山樗牛の胸像などがある。