東正寺 |
(写真左:東正寺の入口と枝垂桜。)(写真右:東正寺の山門。) |
東正寺はもと東昌寺と称した。『赤湯温泉誌』によると慈覚大師の草庵の旧址を伊達氏が押領し、伊達氏4代の伊達政依(粟野蔵人)精舎を建て、東昌寺と号したと伝える(1283年)。さらに正和元年(1312年)境内に温泉が湧出したので湯生寺とし、曹洞宗に転じた時、湯新山東正寺を称したという。伊達政依は伊達郡に臨済宗の五つの寺「伊達五山」を創建した人物で東昌寺もその一つである。当地へは永徳三年(1383年)伊達宗遠・政宗父子が置賜に進出するにあたり夏刈へ移されたというが、赤湯の間違いか。また元中年間(1384〜1392年)に当地に建立したともいう。異説として延元三年(1338年)道叟道愛開山説がある。東昌寺の北には「永仁二年(1294年)伊達式部少輔」「永仁二年平吉宗」の磨崖碑が見られる。或いはこの時期、東昌寺は既にこの地にあったかも知れない。東昌寺は伊達持宗時代には二百人の衆徒を抱える大寺院だったらしい。戦国時代、大有康甫(伊達輝宗の叔父)が住職を務めていた際、東昌寺に寓居していたのが虎哉宗乙である。天正三年(1575年)には明の翰林学士楊一龍が本国の戦乱を避けて東昌寺に滞在しており、虎哉宗乙と詩を唱和したという。虎哉宗乙は1572年伊達輝宗の招請で資福寺住持となり、伊達政宗の師を任された。東昌寺は伊達政宗の岩出山移封に伴って岩出山に移ったが、赤湯にも東昌寺が残った。後年、曹洞宗に変わっている。 |
(写真:東正寺にある赤湯出身の大蔵大臣、日銀総裁の結城豊太郎の墓。結城は臨雲豊と号した。) |