鳥越

鳥越館の大手口に建てられた鳥越八幡宮。一里塚の碑。羽州街道の面影を残す。

(写真左:鳥越館の大手口に建てられた鳥越八幡宮。)(写真右:一里塚の碑。羽州街道の面影を残す。)

新庄城下の南の入口「鳥越の一里塚」。鳥越の一里塚にはブナの木が植えられている。

(写真左:新庄城下の南の入口「鳥越の一里塚」。)(写真右:鳥越の一里塚にはブナの木が植えられている。)

鳥越の地名は源義経一行が奥州平泉へ逃れる途中、この地で夜が明け、鶏が鳴いたことが由来という。鳥越八幡宮は寛永十五年(1638年)第二代新庄藩主戸沢定盛が新庄の南の関門に当たるこの高台に八幡宮を建立したのが始まりである。もともとこの地は東根城主だった小田島氏の一族鳥越氏が鳥越館を構えていた。新庄の地名は東根から移った鳥越氏が新たに荘園を開いたことに由来するという。鳥越氏は後に最上義光の三男清水大蔵大輔義親に属したが、1614年義親が兄の最上家親に滅ぼされると最上宗家に直属した。1622年最上氏が改易されると鳥越氏もこの地を去って近江に移った。鳥越には羽州街道跡として「鳥越の一里塚」が残されている。一里塚には旅人を休ませるため榎や松が植えられたが、「鳥越の一里塚」にはブナが植えられている。付近には松尾芭蕉ゆかりの柳の清水跡と句碑もある。

「水の奥 氷室尋る 柳哉」