天童城 |
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(写真左:天童城本丸跡に建つ愛宕神社)(写真右:舞鶴山(天童城跡)にある有名な「人間将棋」の盤) |
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天童城は舞鶴城とも呼ばれ、天童市舞鶴山に建てられた山城である。登るには急坂を登り、北は沼、山頂の本丸付近は断崖で囲まれた天然の要害であった。天童の地名は舞鶴山に二人の童子が天から無い降りたという伝説がある。南北朝時代に南朝方の北畠天童丸が舞鶴山に拠って山寺立石寺と提携して当地での南朝勢力の挽回に努めたが北畠天童丸は敗れて津軽鯵ヶ沢に逃れた。1375年最上氏二代最上直家の子頼直が成生荘の地頭里見氏の養子となり(その前の里見義宗も最上氏初代斯波兼頼の弟)、里見氏を継いだ頼直が天童氏を称して舞鶴山に築城した。このため天童氏は最上氏の分家ではなく里見氏を称し、最上氏と同格扱いとなり享徳の乱では幕府から最上氏、天童氏それぞれに書状が届いた。永正年間伊達氏が最上氏領内に侵入するようになり、永正十一年(1514年)伊達稙宗は長谷堂の戦いで最上義定を破り、最上氏を事実上傀儡としたが、天童頼長を中心とした最上八楯は伊達氏に抵抗を続けた。こうして天童氏は八楯の盟主として最上氏に代わる実力をつけた。1570年山形城主最上義光が父義守との相克を経て最上家家督を相続する。最上義光の出羽統一の動きに対抗し、天童頼貞は隠居した義守に肩入れして、義守の女婿伊達輝宗らとともに義光を攻めて「天正最上の乱」が起きた(1574年)。その後、義光は天童頼貞の娘を側室として和議を結ぶが和議は後に崩壊。この間に義光は上山の上山氏、真室川の鮭延氏などを攻略し、庄内の大宝寺義氏を家臣の内応で暗殺させるほど勢いを増していた。1584年義光は谷地の白鳥長久を山形城に誘き寄せ暗殺し、寒河江の大江氏を滅ぼした。残った天童頼久(頼貞の子)は天童城の天険を誇り、義光に抵抗したが、最上八楯一の剛勇である延沢満延が義光の娘を息子の嫁にもらい義光に寝返ったため、天童頼久は孤立無援となり1584年八幡山の戦いで義光に敗北し、天童城も落城する。頼久は喜太郎という者の手引きで関山峠を越え、仙台の国分盛重のもとに逃れて伊達政宗の家臣となった。最上義光は戦勝後、天童城に愛宕神社を建て、勝軍地蔵を祀った。江戸時代になり、1830年織田氏が天童に移って天童藩を興すが、陣屋は舞鶴山ではなく麓の田鶴町に置かれた。現在、舞鶴山には「人間将棋」で用いられる巨大な将棋盤があるが、天童における将棋の歴史は織田家が天童に入部して始まる。窮乏した天童藩では生活苦にあえぐ下級武士たちが将棋の駒づくりを内職とし始めたという。幕末には家老の吉田大八が藩士に将棋の駒づくりを奨励したという。 |