天童御陣屋

天童御陣屋は南は三宝寺から北は善行寺までの間に南北450m、東西500mの大きさで造られた。明治以降は御陣屋の一帯が田鶴町となった。現在は御陣屋跡の中央を山形新幹線が縦断する。

(写真:天童御陣屋は南は三宝寺から北は善行寺までの間に南北450m、東西500mの大きさで造られた。

明治以降は御陣屋の一帯が田鶴町となった。現在は御陣屋跡の中央を山形新幹線が縦断する。)

喜太郎稲荷の入口。天童御陣屋の大手門に当たる場所。北辰一刀流道場「調武館」が置かれた。天童氏、織田氏に信奉された喜太郎稲荷神社。

(写真左:喜太郎稲荷の入口。天童御陣屋の大手門に当たる場所。北辰一刀流道場「調武館」が置かれた。)

(写真右:天童氏、織田氏に信奉された喜太郎稲荷神社。)

天保元年(1830年)、織田家十代の織田信美は高畠から天童への居館移転願いが認められ、天童陣屋を造営し、翌年天童御陣屋に居館を移した。これが天童藩織田家の始まりである。陣屋は南は三宝寺から北は善行寺までの間に南北450m、東西500mの大きさで造られた。明治以降は御陣屋の一帯が田鶴町となった。現在は御陣屋跡の中央を山形新幹線が縦断する。天童御陣屋跡を示すものはそれほど残っていないが、天童御陣屋の大手門があった場所には北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、天童織田藩の武士が武術に励んでいたという。

天童御陣屋大手門のあたりに喜太郎稲荷神社が残されている。喜太郎稲荷神社は766年和気清麻呂の三男仲安が神社を創立し、その末子である喜太郎が京都伏見稲荷からこの地に奉安したので喜太郎稲荷神社と呼ばれるようになったという。南北朝から戦国時代にかけては舞鶴山の天童城に拠った天童氏が祈願所として御朱印を献じ、信仰した。後に織田家が天童御陣屋を築いた際に氏神として奉祀したのが、この喜太郎稲荷神社である。元の喜太郎稲荷は舞鶴山にある。喜太郎稲荷は天童氏の信仰を受けていたこともあり、次のような言い伝えが残されている。天童城主里見頼直(天童氏初代)が京都に赴いた際、おともの家来、喜太郎が伏見稲荷で秘術を得ようとする旅人と意気投合し、頼直の許しを得て伏見稲荷で修業して秘術を得た。天童に戻った喜太郎は頼直から生き神として崇められ、天童の守護神として神社を建てられた。後に九代城主天童頼久の時代になると本家筋で出羽の統一を目指す山形城の最上義光に攻められ、天正十二年(1584年)遂に天童城は落城してしまう。頼久は関山峠から独眼龍伊達政宗の叔父で千代(仙台)の国分盛重の下に落ち延びようとした。だが頼久が着いた頃、関山峠は日が暮れて暗闇の中で頼久一行は立ち往生した。すると喜太郎が現れ、火をともして道案内した。こうして天童頼澄は最上義光の追手を逃れ、無事に宮城郡愛子に落ち延びることができたという。以後、天童頼久は伊達政宗の家臣となる。