舘山城

舘山城跡。現在は正面に館山発電所がある。館山城東館の発掘現場にある「伊達政宗公生誕の地」碑。

(写真左:舘山城跡。現在は正面に館山発電所がある。)(写真右:館山城東館の発掘現場にある「伊達政宗公生誕の地」碑。)

舘山城入口にある舘山城の図。川に囲まれた要害で青葉城など伊達氏の山城の構造の原点とされる。

(写真:舘山城入口にある舘山城の図。川に囲まれた要害で青葉城など伊達氏の山城の構造の原点とされる。)

米沢の舘山城はもと新田冠者経衡の城館であったという。新田冠者経衡は奥州藤原氏三代藤原秀衡の従兄弟樋爪季衡(高畑城主)の子である。藤原泰衡が源義経を討った際、新田冠者は鎌倉への使者となり、源義経の首級を源頼朝に届けている(使者は新田冠者とされているが泰衡の弟本吉冠者高衡との説も)。

奥州藤原氏滅亡後、経衡は源頼朝に降り、子孫は新田氏を称して舘山城上流の田澤の領主となったという。新田氏は新たに置賜の地頭になった長井氏に従う。長井氏は大江広元の次男時広に始まり、長井郷(上長井、現在の米沢近辺)を領したことから長井氏を称した。1380年伊達宗遠、政宗父子は支配を目論み長井荘に侵入した。長井広房に仕えた新田遠江守は小松で伊達軍と決戦に及ぶが伊達の計略で伏兵に襲われ、新田氏側の将は悉く討たれた。伊達は新田遠江守とその六名の家臣を祀るため長井市歌丸に六つの石塔婆を造った(歌丸の六本仏)。

その後置賜は伊達氏の所領となり新田氏は伊達氏に服属した。伊達輝宗の時代、元亀元年(1570年)重臣中野宗時が小松城にて謀反を起こし、新田義直は岳父宗時に内応して舘山城で決起した。義直の父、新田景綱は遠藤基信とともに事態を輝宗に報告し、息子義直を討ち、小松城の中野宗時を攻略し、中野は伊達領内から逃亡した。1584年輝宗は息子政宗に家督を譲り、舘山城を改修して隠居所にしたとされる。輝宗は舘山城の修築が終わるまで鮎貝宗重の屋敷で世話になったという。しかし輝宗時代の治世を記した『性山公治家記録』では中野宗時の乱で米沢が火災に見舞われたが御城は山の上で大丈夫だったとされ、当時の米沢城は山城だったことが明らかになっている。現在の米沢城は完全な平城で米沢市街地には該当する山も無いことから舘山城こそ当時の米沢城と考えられている。1585年輝宗が畠山義継に拉致され、非業の死を遂げた後も、政宗によって1587年から再び舘山城改修が行われた。当時は蘆名氏との戦いや豊臣秀吉との対決を控え、城の防御力を高める必要性があった。政宗自身は蘆名氏攻略後、会津黒川城に移り、1591年秀吉の奥州仕置で岩出山移封となり、米沢の地を離れた。ところが舘山城の石垣には「打ち込みはぎ」が使われており、この技術は伊達氏に無かったことから、上杉景勝が当地を支配するようなってから再び改修した可能性がある。或いは徳川との決戦を控え、直江兼続が改修した可能性もある。1613年には直江兼続により現在の米沢城と城下町が形成され、舘山城は完全に廃城になったと思われる。

長井市歌丸の六本仏。伊達政宗の置賜侵攻の際に滅ぼされた新田遠江守とその家臣たちを祀る。

(写真:長井市歌丸の六本仏。伊達政宗の置賜侵攻の際に滅ぼされた新田遠江守とその家臣たちを祀る。)