楯岡城

楯岡城主の楯岡氏(最上氏)の菩提寺、祥雲寺。

(写真:楯岡城主の楯岡氏(最上氏)の菩提寺、祥雲寺。)

楯岡城は舞鶴城ともいい、承元二年(1208年)前森氏が築城し、弘長元年(1261年)本城氏が城に入る。応永十三年(1406年)に至り、最上満直(最上氏三代)の四男最上伊予守満国が入部した。満国は楯岡城北東に祥雲寺を菩提寺として創建した。六代目楯岡満英には居合術の祖、林崎甚助の父が仕えていた。楯岡氏七代目の楯岡満茂は最上義光に従い、横手の小野寺義道との戦いなどで活躍した。後に秋田の湯沢城主となり、慶長出羽合戦の後は由利郡本荘城に移り、本城氏を称した。その後、最上義光の弟、楯岡甲斐守光直が楯岡城に入った。しかし1517年義光の跡を継いだ次男家親が急死して僅か13歳の義俊が家督相続すると光直はこれに反対し、義光の四男義忠を推した。一方、義光の甥の松根備前守光広は家親の急死は光直による毒殺だと幕府に訴え、最上家中は跡目相続問題で激しく対立した。この家臣団の対立が原因で1622年最上家は改易された。光直は肥後細川氏にお預けとなり、子孫は細川家臣となった。改易後、楯岡城は廃城となった。