高畠小学校の西にある堀はかつての高畑城の堀の一部である。
高畑城は屋代城ともいい、西が丸く東が角型の鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城と呼ばれた。承安年間、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の従弟、樋爪季衡が築城したという。鎌倉時代は大江広元の子孫長井氏が米沢を本拠に置賜を所領としたが、1380年伊達宗遠・政宗が長井氏を滅ぼして置賜を支配下に収めると桑折町赤館とともに伊達氏の居城となった。以後、伊達晴宗が米沢城に移るまで高畑城は置賜における伊達氏の本拠地であった。1591年伊達政宗が岩出山に移封され、蒲生氏郷を経て上杉景勝が置賜を所領とすると米沢城には直江兼続が入り、高畑城代として直江の腹心春日元忠が置かれた。以来高畑城は置賜統治における上杉氏の重要な支城となる。1600年関ヶ原の戦いで西軍についた上杉景勝が米沢三十万石に減封されても高畑城代は置かれた。ところが寛文四年(1664年)藩主上杉綱勝が跡継無く死去し、辛うじて吉良上野介の子綱憲の上杉家相続が認められたが十五万石に減封されてしまう。この際、高畑城周辺の屋代郷は天領となる。さらに米沢藩預所と幕府代官支配との時期が交互した。こうした背景に米沢藩の苛政も加わり、青苧一揆や高梨利右衛門の直訴など屋代郷では統治者への抵抗がしばしば見られるようになった。
明和四年(1767年)上州小幡藩の織田信浮が幕命により高畑に移された。織田家家老吉田玄蕃は尊王論者の山県大弐に師事していたが、玄蕃追い落としを図る織田家側用人松原郡太夫は藩主織田信邦に讒言して玄蕃を監禁させた。この内紛は幕府による尊王思想弾圧の格好の口実となり、明和事件に発展する。こうして山県大弐は捕らえられて処刑され、織田信邦は二十二歳で隠居に追い込まれて弟信浮が継いだ。織田信長の子孫としての名家の家格は失い、小幡二万石から高畑二万三千石に移された。その領地は天童を中心とする村山郡に一万二千石余、陸奥信夫郡に三千石余、高畑を中心とする置賜郡に四千石余であったが幕命によって高畑城に陣屋が置かれた。だが織田家の置賜郡での所領は高畑周辺の僅か六ヶ村であり、屋代郷は織田領のほか幕領米沢藩預所、幕領代官支配地が入り組むことになった。明和四年は上杉鷹山(治憲)が米沢藩主となった年で鷹山の世話になって準備を整え、翌五年に織田家は高畑陣屋に移った。 |