高畑城

  高畠町内  
 

鳩峰街道

高畠町内

   
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高畠城跡。高畑城は屋代城ともいわれた。後ろに見えるのは高畠高校。こちら側には高畠小学校がある。高畠高校北側にある高畑城の堀跡。高畑城は鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城と呼ばれた。
穏やかな鈴沼。鈴沼温泉。住宅地を掘っていたら出たらしい。

高畠小学校の西にある堀はかつての高畑城の堀の一部である。
高畑城は屋代城ともいい、西が丸く東が角型の鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城と呼ばれた。承安年間、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の従弟、樋爪季衡が築城したという。鎌倉時代は大江広元の子孫長井氏が米沢を本拠に置賜を所領としたが、1380年伊達宗遠・政宗が長井氏を滅ぼして置賜を支配下に収めると桑折町赤館とともに伊達氏の居城となった。以後、伊達晴宗が米沢城に移るまで高畑城は置賜における伊達氏の本拠地であった。1591年伊達政宗が岩出山に移封され、蒲生氏郷を経て上杉景勝が置賜を所領とすると米沢城には直江兼続が入り、高畑城代として直江の腹心春日元忠が置かれた。以来高畑城は置賜統治における上杉氏の重要な支城となる。1600年関ヶ原の戦いで西軍についた上杉景勝が米沢三十万石に減封されても高畑城代は置かれた。ところが寛文四年(1664年)藩主上杉綱勝が跡継無く死去し、辛うじて吉良上野介の子綱憲の上杉家相続が認められたが十五万石に減封されてしまう。この際、高畑城周辺の屋代郷は天領となる。さらに米沢藩預所と幕府代官支配との時期が交互した。こうした背景に米沢藩の苛政も加わり、青苧一揆や高梨利右衛門の直訴など屋代郷では統治者への抵抗がしばしば見られるようになった。
明和四年(1767年)上州小幡藩の織田信浮が幕命により高畑に移された。織田家家老吉田玄蕃は尊王論者の山県大弐に師事していたが、玄蕃追い落としを図る織田家側用人松原郡太夫は藩主織田信邦に讒言して玄蕃を監禁させた。この内紛は幕府による尊王思想弾圧の格好の口実となり、明和事件に発展する。こうして山県大弐は捕らえられて処刑され、織田信邦は二十二歳で隠居に追い込まれて弟信浮が継いだ。織田信長の子孫としての名家の家格は失い、小幡二万石から高畑二万三千石に移された。その領地は天童を中心とする村山郡に一万二千石余、陸奥信夫郡に三千石余、高畑を中心とする置賜郡に四千石余であったが幕命によって高畑城に陣屋が置かれた。だが織田家の置賜郡での所領は高畑周辺の僅か六ヶ村であり、屋代郷は織田領のほか幕領米沢藩預所、幕領代官支配地が入り組むことになった。明和四年は上杉鷹山(治憲)が米沢藩主となった年で鷹山の世話になって準備を整え、翌五年に織田家は高畑陣屋に移った。
しかし上杉鷹山が藩政改革に取組んで米沢藩を建て直したのに比べ、高畑藩織田家は家格復旧と旧領復帰を願うばかりで天明の大飢饉の際も無策であった。文化七年(1810年)・文政九年(1826年)と高畑陣屋は二度の火災に見舞われて焼失した。この事件と領地の四分の三が天童を中心とする村山郡にあったことから天童への居館移転を幕府に願い出て、天保元年(1830年)天童に移った。翌年藩主織田信美も移り、以後天童藩となる。高畑には代官が置かれた。嘉永元年(1848年)高畑は再度幕領米沢藩預所となり、高畑城に陣屋が置かれた。文久三年(1863年)屋代郷では幕府代官直接支配を望む一揆が起きたが鎮圧される。1864年には後に幕末の志士として活躍する雲井龍雄らが屋代郷民の離反に備えて高畠陣屋の守りについたという。慶応二年(1866年)高畑は米沢藩領となり、その代償として米沢藩は崩壊寸前の幕府に協力することになる。明治二年(1869年)戊辰戦争の結果、高畑は上地によって米沢藩の支配から脱却し、高畑陣屋の役目も終了した。

 

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