高畑城 |
(写真左:高畠城堀跡の碑。高畑城は屋代城ともいわれた。) (写真右:高畑城の堀跡。高畑城は鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城と呼ばれた。) |
高畑城は屋代城ともいい、西が丸く東が角型の鐘の形をした堀に囲まれていたため、別名を鐘ヶ城と呼ばれた。承安年間、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の従弟、樋爪季衡が築城したという。鎌倉時代は大江広元の子孫長井氏が地頭として上長井(米沢)を本拠に置賜地方を支配したが、1385年伊達宗遠・政宗(儀山)父子が長井氏を滅ぼして置賜を手中に収めた。1402年伊達政宗(儀山)は高畑城に移り、1405年高畑城で亡くなった。政宗は伊達氏中興の祖とされる名将で、以後は桑折町の赤館(西山城)とともに伊達氏の居城となった。1548年伊達晴宗は天文の乱で父稙宗を隠居させ、自ら伊達の当主となり、米沢城に居城を移した。高畑城には重臣の小梁川氏が入った。1591年伊達政宗(貞山)が岩出山に移封され、代わって蒲生氏郷が置賜地方を支配した。蒲生氏も内紛で改易され、1598年上杉景勝が会津とともに当地を領有とすると米沢城には直江兼続が入り、高畑城代として直江の腹心春日右衛門元忠が入った。高畑城は置賜統治における上杉氏の重要な支城となる。1600年関ヶ原の戦いで西軍についた上杉氏は米沢三十万石に減封され、兼続の弟大国実頼が高畑城主となるが、引き続き春日元忠が城代を務め、春日は安部右馬助や結城治部など在郷の武士に白龍湖周辺の大谷地を開拓させて田地を増やした。江戸時代には高畑など米沢藩の支城は御役屋と称して防衛や統治の拠点となった。寛文四年(1664年)藩主上杉綱勝が跡継無く死去し、辛うじて吉良上野介の子綱憲の上杉家相続が認められたが十五万石に減封されてしまう。この際、高畑城周辺の屋代郷は上杉家の手を離れ、天領となる。さらにこの後、米沢藩預所と幕府代官支配との時期が交互した。こうした背景に財政的に困窮する米沢藩の苛政も加わり、青苧一揆や高梨利右衛門の直訴など屋代郷では統治者への抵抗がしばしば見られるようになった。 明和四年(1767年)上州小幡藩の織田信浮が幕命により高畑に移された。織田家家老吉田玄蕃は尊王論者の山県大弐に師事していたが、玄蕃追い落としを図る織田家側用人松原郡太夫は藩主織田信邦に讒言して玄蕃を監禁させた。この内紛は幕府による尊王思想弾圧の格好の口実となり、明和事件に発展する。こうして山県大弐は捕らえられて処刑され、織田信邦は二十二歳で隠居に追い込まれて弟信浮が継いだ。織田信長の子孫としての名家の家格は失い、小幡二万石から高畑二万三千石に移された。その領地は天童を中心とする村山郡に一万二千石余、陸奥信夫郡に三千石余、高畑を中心とする置賜郡に四千石余であったが幕命によって高畑城に陣屋が置かれた。だが織田家の置賜郡での所領は高畑周辺の僅か六ヶ村であり、屋代郷は織田領のほか幕領米沢藩預所、幕領代官支配地が入り組むことになった。明和四年は上杉鷹山(治憲)が米沢藩主となった年で鷹山の世話になって準備を整え、翌五年に織田家は高畑陣屋に移った。しかし上杉鷹山が藩政改革に取組んで米沢藩を建て直したのに比べ、高畑藩織田家は家格復旧と旧領復帰を願うばかりで天明の大飢饉の際も無策であった。文化七年(1810年)・文政九年(1826年)と高畑陣屋は二度の火災に見舞われて焼失した。この事件と領地の四分の三が天童を中心とする村山郡にあったことから天童への居館移転を幕府に願い出て、天保元年(1830年)天童に移った。翌年藩主織田信美も移り、以後天童藩となる。高畑には代官が置かれた。嘉永元年(1848年)高畑は再度幕領米沢藩預所となり、高畑城に陣屋が置かれた。文久三年(1863年)屋代郷では幕府代官直接支配を望む一揆が起きたが鎮圧される。1864年には後に幕末の志士として活躍する雲井龍雄らが屋代郷民の離反に備えて高畠陣屋の守りについたという。慶応二年(1866年)高畑は米沢藩領となり、その代償として米沢藩は崩壊寸前の幕府に協力することになる。明治二年(1869年)戊辰戦争の結果、高畑は上地によって米沢藩の支配から脱却し、高畑陣屋の役目も終了した。 |