山形交通高畠線 |
(写真左:現在の高畠駅(旧糠ノ目駅)。中には日帰り温泉施設「太陽館」がある。) (写真右:桜並木が続くサイクリングロード「まほろばの緑道」は高畠線の線路跡。) (写真左:旧高畠駅舎は地元の高畠石で造られたという。)(写真右:旧高畠駅に今も残る山形交通高畠線の電車と機関車。) |
明治33年4月21日、奥羽本線に現在の高畠駅にあたる糠ノ目駅が開業した。しかし、駅は高畠町の中心部から遠く離れた場所にあり、地元では長谷川製糸所など製糸業の発展もみられたため、大正9年高畠町長新野広吉氏らを中心に鉄道敷設の動きが始まった。大正10年2月15日、新野弥文次氏を社長とし、資本金55万円の高畠鉄道株式会社を設立した。翌11年3月13日、糠ノ目〜高畠(旧高畠駅のこと)間5.2kmを蒸気機関車による運転で開業し、同年5月10日に開通式を挙行している。地元山形新聞では、その賑わう模様を次の様に伝えている。「高畠鉄道の関門たる糠野目駅より見ると、同駅に設けられた高畠町祝賀協賛会の出張所には係員詰めかけ駅頭に大歓迎門を造り、社章丸高の文字を正面に現し「祝賀高畠線開通」と大書しバラック式の舞台を設けて、昼は素人芝居、馬鹿囃し、夜間は米沢芸妓の手踊り等あり、煙花は汽車の発着毎に天空に轟きて景気を添え、附近は観衆や乗客にて織るが如く、一本柳、竹の森両停車場また孰れも装飾を施し。殷賑を呈していた。(一部のみ)」さらに大正13年8月31日には二井宿まで延長し、全線10.5kmが開業する。ルートは糠ノ目〜一本柳〜竹森〜高畠〜安久津〜駄子町〜上駄子町〜二井宿であった。昭和4年9月1日には全線電化もなった。昭和12年の切符を見ると二井宿〜高畠間で運賃は5等17銭である。昭和18年10月1日に戦時特例として、三山電鉄らと合併し、山形交通株式会社高畠線となった。戦後の昭和25年には東高畠駅も開業し、昭和28年の乗客は約62万人、貨物も木材、パルプ材、ミルク、米、家畜、石材、木炭、鉱石、果物、製糸、肥料、セメント、燃料と多岐にわたり、その繁栄ぶりがうかがわれる。しかし、昭和41年8月15日、水害により屋代川鉄橋が沈み、高畠〜二井宿間がバス代行運転となり、昭和43年10月1日には高畠〜二井宿間の営業が廃止された。そして残された糠ノ目〜高畠も昭和49年11月15日に廃止となった。11月17日には、「ガニ」こと小型電気機関車による「さよなら高畠線」の花電車が運行され、1500人が乗り込んで地域に貢献した高畠線に別れを告げた。 |
参考文献『企画展山形交通高畠線』(高畠町郷土資料館)『山形県議会八十年史 大正篇』『とうほく廃線紀行』(無明舎出版)『鉄道廃線跡を歩くV』(JTB) |
山形交通高畠線跡はサイクリングロード「まほろばの緑道」として整備されている。この道をたどってみる。起点であるJR高畠駅は以前、糠ノ目駅という名前であった。現在は西洋のお城の如き駅舎が建っており、駅舎内には日帰り温泉施設「太陽館」がある。太陽館は入浴料200円でサウナがあり、ホームを出てすぐ温泉ということや無料駐車場も広いことから多くの人が訪れているようだ。駅から0分という「温泉新幹線」に名に恥じない駅である。なぜかカッパの石像もあり、民話の里遠野との間で嫁入り婿入りが行われているらしい。春になると緑道が桜並木で覆われて桜色になる。その間を抜けて先へ進むとかつて一本柳駅があった近くに「浜田広介記念館」が建てられている。一本柳は「泣いた赤鬼」や「むくどりの夢」などで知られる日本のアンデルセンと呼ばれた童話作家浜田広介の出身地である。「浜田広介記念館」の横には日帰りの温泉施設、まほろば温泉「むくどりの夢館 温もりの湯」もある。平成2年に掘り当てた新しい温泉で入浴料200円。ここのお湯をJR高畠駅まで送り「太陽館」で利用している。竹ノ森駅があった辺りは「屋代」と呼ばれる地域で、付近の小高い山を屋代三山(相森山、竹森山、根岸山)と呼ぶ。高畠町は「まほろばの郷」を称しており古墳も多く、大和三山に相通ずる部分も感じられる。竹森山の麓には明治15年創業の長谷川製糸場という製糸工場があった。高畠では製糸産業が盛んで他にも片倉、両羽などの製糸工場があった。しかし時代の移り変わりと共に製糸産業は衰退し、最後は長谷川製糸場を残すだけとなり、ついに長谷川製糸場も平成9年にその役割を終えた。旧高畠駅は高畠鉄道(のち山形交通高畠線)の駅舎として昭和9年地元の高畠石で造られたもので今も保存されている。当時としてはモダンな趣きのある建物である。旧高畠駅構内には現在も高畠線の電車と機関車が保存されている。「まほろばの緑道」は橋を渡って東高畠駅があった辺りで国道113号線のバイパスに合流してしまう。高畠線はこの先ほぼ国道113号バイパスと同じルートをたどり二井宿へと向かっていた。 |