高擶城

高擶城址の碑。

(写真:高擶城址の碑。)

高擶城遺構図。文明年間以降、この形に整備された。

(写真:高擶城遺構図。文明年間以降、この形に整備された。)

高擶城は最上氏二代の最上(斯波)直家の四男、義直が応永年間(1394〜1427)に築城したのが始まりとされる。最初は現在地より東方の「楯の城」にあり、文明年間(1469〜1486)に現在地に移転して以降は天童城の支城となった。「遺構図」のような城郭となったのはこの頃らしい。永正十七年(1520年)伊達稙宗が最上氏を攻め、山形盆地にまで侵攻して高擶城を落とした。この時、武人画家として知られる郷目貞繁も捕虜となっている。最上義光が天童氏を滅ぼすと義光の支配下となり、最上家臣の宮崎内蔵丞、斎藤伊予守光則が在城した。また義光は専称寺を高擶から山形に移し、後に非業の死を遂げた娘駒姫の菩提寺とした。義光が高擶小僧丸を称したという文書から義光の高擶在城が論じられるが別の文書で谷地小僧丸も称しており何故小僧丸を称したか研究が待たれる。元和八年(1622年)の最上氏改易で高擶城は廃城となった。幕末には館林城主秋元氏の陣屋が高擶城二の丸西側に置かれた。