白鳥城

白鳥氏が拠った白鳥城址。白鳥十郎長久が愛育したという松。

(写真左:白鳥氏が拠った白鳥城址。)(写真右:白鳥十郎長久が愛育したという松。)

村山市の最上川西岸にある白鳥城は白鳥十郎長久が谷地に進出する以前に白鳥氏の根拠地であった。白鳥氏は前九年の役で源頼義・義家父子に討たれた安倍頼時の子孫で頼時の八男、行任が胆沢郡から逃れて出羽の葉山山麓に潜伏し、白鳥冠者八郎を名乗ったのが始まりという。また白鳥氏は大江氏の一族、中条氏の一族という説もある。記録上は南北朝時代から活躍し始め、応永九年(1402年)の鎌倉公方と伊達政宗(儀山)の戦いでは最上氏・大江氏とともに鎌倉公方につく。白鳥氏の影響力は大きかったらしく、天文十一年(1542年)天文の乱で伊達稙宗と晴宗父子が争うと稙宗は白鳥氏に書状を送って最上義守に働きかけるよう依頼している。永禄元年(1558年)頃、白鳥十郎長久は谷地城に進出して勢力を拡大した。天正二年(1574年)には最上氏の家督相続争いに端を発した最上義光と最上義守・伊達輝宗連合軍の戦い(天正最上の乱)を和解に導いている。さらに天正五年(1577年)には織田信長に馬を贈るなど勢力の伸張が著しかったが、出羽統一を目指す最上義光にとっては白鳥十郎は大きな障害で、遂に天正十二年(1584年)最上義光の謀略により、山形城に誘き寄せられて殺された。白鳥城址には白鳥十郎長久が愛育したという松も残っている。