南陽市と白鷹町を結ぶ小滝越(旧国道348号)の途中、南陽市側から北へ白鷹山表参道の狭い山道が分かれ、途中まで車で登っていける。また白鷹町中山地区の白鷹スキー場からも白鷹山に登る道があり、頂上近くの気象レーダーのところまで行けるようだ。
白鷹町の北東、中山地区は白鷹町であるが、山辺町摂待や朝日町水本に隣接し、その間には峠のような遮るものも無い。交流も盛んだったようだが、米沢藩主上杉鷹山が藩政改革に努め、養蚕産業の育成に力を入れるようになると、流出を警戒し、領民が領外へ出ることを厳しく監視するようになった。これに対して寛政五年(1793年)中山村の円蔵を首領として200名の農民が番所に火をつけるという事件(中山番所焼打事件)が起こった。首謀者円蔵は火あぶりの刑になり、中山寺には彼を供養するため、壱丈塔婆が建てられた。
畑谷へ向かう県道から山辺町との境界手前で右折し、林道に入ると「狐越」と呼ばれる峠道で以前は西置賜と山形を結ぶ最短ルートとしてよく使われていた。この狐越を越え、山辺町に入ると間もなく右側に山辺町側からの白鷹山登山口が見えてくる。ここには赤い鳥居があり「白鷹山」と額に書かれている。
白鷹山の語源は奈良時代まで遡る。当時の高僧「行基」がこの地を訪れ、白い鷹が飛来するのを見ていると、光と紫雲の荘厳な光景が現れた。行基はこれを虚空蔵菩薩のお告げとして山頂に虚空蔵菩薩を祭り「白鷹山」と呼ばれるようになったという。
この白鷹山を特に信仰したのが、米沢藩主上杉鷹山(治憲)である。鷹山はこの白鷹山を養蚕の神として祭り自分の号も白鷹山にあやかった。鷹山は藩財政の建て直しの一環として、この養蚕を奨励したのである。鷹山の尽力で置賜に養蚕が広まったことは、明治以降の置賜における製糸業の発展をも支えた。のちに地域の人々は鷹山自身を養蚕の神としてあがめるようになった。あるいは鷹山(ようざん)という号を養蚕(ようさん)にかけたのかも知れない。当時の人々にとって養蚕を熱心に広め、藩財政を立て直した鷹山は「白鷹山」の神の化身のような存在であったのだろう。 |