柳生戸街道(塩の道)

小国北部の荒沢からは越後村上まで「塩の道」が延びていた。

(写真:小国北部の荒沢からは越後村上まで「塩の道」が延びていた。)

小国町北部、新潟県境近くの荒沢からは「柳生戸街道(塩の道)」が柳生戸経由で越後村上まで延びていた。慶長年間、直江兼続は最上義光攻めに備えて柳生戸街道を用いて越後から塩を運んでいたという。江戸時代を通じて米沢藩と越後村上を結ぶ重要な交易ルートだった。また荒沢など小国北部と長井の間には険しい山道を越える「西山古道」があったというが、幕末になると長井の商人達が最上川の船賃値上の対策として長井から野川を遡り、険しい西山を越えて小国町北部の石瀧地区に出る新道を開削した(1867年)。これを「西山新道」という。「西山新道」と「柳生戸街道」がつながったことで村上から長井に塩が、長井から村上に生糸が運ばれたという。だが戊辰戦争で官軍が「西山新道」から攻めてきた場合に備えて道を塞ぐことになり、以後顧みられず西山新道は僅かの期間で消滅したという。